「スピノザの世界」に関するメモと考察2
3. エチカ
世界そのものが真理でできており、われわれは真理でできているその世界の一部分である。(P.72)
あまねく存在するのは神だけ。(P.106)
第1部「神について」
第2部「精神の本性および起源について」
第3部「感情の起源および本性について」
第4部「人間の隷属あるいは感情の力について」
第5部「知性の力能あるいは人間的自由について」
4. 衝動
われわれはあるものを善と判断するがゆえにそのものへと努力し・意志し・衝動を抱き・欲望するのではなくて、反対に、あるものへ努力し・意志し・衝動を抱き・欲望するがゆえにそのものを善と判断するのである。(P.30、「エチカ」第3部定理9の備考)
言い表すことのできない「衝動(appetitus)」がすでにあってわれわれの行動を生み出し、われわれはそれをいわば遅ればせに欲望として感じている。欲望とは意識を伴った衝動である。(P.31-33)
おのおのの事物が自己の有に固執しようと努める力、それが「努力(conatus)」。これが無くなるとその事物そのものが無くなるので、それはその事物の「現実的本質」。コナトゥスは目的というものをまったく持たずに働いている自然(神)の活動力の一部であり、そのつど及ぶところまで及んでいる。コナトゥスはそれゆえ、それ自体としては目的と何の関係もない。事物はそのつどめいっぱい自己の有を肯定しているだけで、まだ見ぬ自己の実現を目指して努力しているわけでもない。こうした目的なきコナトゥスがわれわれにもあって、それが精神に何かをさせ、身体に何かをさせる。これが「衝動」である。だから衝動は何かをさせるわけだが、目的があってそうさせるのではない。したがって「何々のために」というお題目は、われわれの頭の中にしかない。(後付けで目的が頭の中で生まれるということ)その意味で馬も私も自分の衝動を知らない。衝動はなまの形で意識にのぼることは決してなく、いつも目的を伴った欲望に加工されて経験される。(P.34-35)
まず衝動ありき。人は欲望としてしか衝動を知覚することはできない。衝動そのものの発生要因を自分は特定できないし説明することはできない。スピノザは、いわゆる人の自由意志を否定する。人が自由に決定していると思い込んでいるものは、実はこの「衝動」によってもたらされたものなのだと。
個人的には、この「衝動」という考え方、ある程度正当性があるように思える。人は、スピノザがいうとおり後付けで欲望を知覚するのかもしれない。一方、現代を生きる我々は、脳内にある約一千億個の脳細胞がシナプス結合されており、そこから思考が生まれることを知っている。スピノザのこの「衝動」と、脳科学的な考えなどを融合して考えてみると、さらなる深い考察ができるだろう。(さらなる追求の末、スピノザの考えに戻る可能性は十分ある)
5. 神あるいは自然(Deus seu Natura)
すべて在るものは神の内に在る、そして神なしには何ものも在りえずまた考えられない。(P.96、「エチカ」定理15)
個物は神の属性の変状、あるいは神の属性が一定の仕方で表現される様態、にほかならない。(P.97、「エチカ」定理25の系)
神の本性の必然性から無限に多くのものが無限に多くの仕方で、(言い換えれば)およそ無限の知性に入ってきうるすべてのものが)出てこなければならない。(P.98、「エチカ」定理16)
ひとことで言えば、神が自己原因と言われるその意味において、神はまたすべてのものの原因であると言わなければならない。(P.100、「エチカ」定理25の備考)
神の力能は神の本質そのものである。(P.103、定理34)
スピノザがいうところの「神あるいは自然」のイメージは、自分として確実に捉えることができていると思う。以前から、自己と他の事物一切との融合が時間性のもとでダイナミックに行われているという哲学(イメージ)を持っており確固としたものとなっていたので、このスピノザの考えはあっさりと受け入れることができる。受け入れるというよりも、むしろそれらは同一であると言っても過言ではない。
蛇足だが、一般の人がスピノザのエチカを読むにあたって、この「神」という表現が理解の邪魔をするのでないか。一方で、この「神」「神あるいは自然」という表現ほど適切な言葉はないのであるが。困ったものだ。
いや、もうちょっと冷静に考えてみると、この時代は(一般的にいうところの)神を否定することなどあり得ない時代だった。少しでも無神論のそぶりを見せれば社会から葬り去られる時代である。実際にスピノザは無神論との批判を受け教会の禁書処分を受けたが、それでもこうしてエチカを没後に発表できたのは、彼がこの神という言葉を巧みに使い、無神論(汎神論でも別に良い)との批判を巧妙にかわす狙いがあったのかもしれない。
そういえば、ヘーゲルの弁証法の最後でも神が登場する。弁証法の性質から考えれば、この神という概念、最後の最後ででてくるにはあきらかに不自然なのだ。私は勝手ながらヘーゲルは社会的批判をかわすために神という概念を自分の思想に取り込まねばならなかった可能性もあると考えているが、スピノザも同じことを(ヘーゲルよりももっとうまく)行ったのかもしれない。
この仮説が正しくなくとも、ユークリッド幾何学的に非人称で真理に迫ろうと試み、またそれを(彼なりに)達成してしまうのだから、スピノザはかなりの頭のキレを持つ人だ。
なかなかやるなぁ、スピノザ。