「気流の鳴る音」に関するメモと考察1
P.35
所有や権力、「目的」や「理想」といった、行動をおえたところにあるもの、道ゆきのかなたにあるものに、価値ある証しはあるのではない。今ある生が空疎であるとき、人はこのような「結果」のうちに、行動の「意味」を求めてその生の空疎を満たす。(中略)市民社会の存立の原理としての利害の普遍相剋性は、欲求の禁圧と制約によってではなく、欲求の解放と豊富化によってはじめて原理的にのりこえられる。富や権力や栄光といったものへの執着を欲求の肥大としてではなく、欲求のまずしさとしてとらえること。解放されたゆたかな欲求を、これらの人びとの目にさえ魅惑的なものとして具体的に提示すること。生き方の魅力性によって敵対者たちを解放し、エゴイズムの体系としての市民社会の自明の前提をつぎつぎとつきくずすこと。
P.214
われわれと他の人間や自然との関わりにおいて、根底的に価値があるのは、われわれがそれらを所有し、支配することではなくて、それらの人びとや自然とのかかわりのなかで、どのようにみずみずしい感動とゆたかな充足を体験しうるかということである。
所有し支配することは、むしろその当の対象的世界との関係における、ゆたかな感動を脱色し貧血せしめる。深林の奥深く神秘な感動は、たとえば森林を分割的に所有することで、色あせたせせこましい経験となる。出会いのみずみずしい感動は、他者たちを支配し所有することでたんなる儀礼となりはててしまう。
こうして所有は、この所有から排除された人々のみならず、その当の所有者自身をも対象的世界から疎外してしまう。(中略)それは所有というものが、行為や関係の意味をその結果に向かって、たえず収奪する構造を内在しているからである。(中略)マルクスが現にあるような労働を、人間の生産的な活動の本来の姿ではなく、疎外された労働としてとらえかえそうとしたのは、活動がそれ自体として生きることであることをやめ、所有することのたんなる手段にまでおとしめられる構造をそこにみたからである。そしてまさしくこのような労働の疎外された構造のうちに、「私的な所有」の関係の核心を彼は見ていた。行動や関係の意味がこのように、<結果として手に入るもの>に向かって収奪されてゆくという構造が止揚されないかぎり、マルクスが明確に記しているように、「共同体はただ労働の共同体であるにすぎず」「普遍的な資本家としての共同体」の割当てる疎外労働にすぎない。
考えたこと
- 私がやりたいことは、自分の生き方によって自明の前提を突き崩し、疎外された人々を解放すること。
- 物や権力を欲している限り、その欲は無尽蔵で永遠に満足できないこと。
- 物を所有すること、権力を持つことによってではなく、生き方そのものによって人を動かすということ。
- お金で物が即に手に入ること、すなわち物を所有という欲求が瞬間的に達成されることに慣れると、時間性を感じる機会が失われ、プロセスが奪われ、自己が崩れていくということ。
- 今、この瞬間に自分が感じていることを大切にすべきであるということ。
- 所有するのではなく、対象物と感覚の中で一体化することでその価値を謳歌できるということ。