「気流の鳴る音」に関するメモと考察4

P.207
世界の諸事物の帯電する固有の意味の一つ一つは剥奪され解体されて、相互に交換可能な価値として抽象され計量化される。個々の行為や関係のうちに内在する意味への感覚の喪失として特色づけられるこれらの過程は、日常的な実践への埋没によって虚無から逃れでるのでないならば、生のたしかさの外的な支えとしての、何らかの<人生の目的>を必要とする。それが近代の実践理性の要請としての「神」(プロテスタンティズム!)であれ、その不全なる等価としての「天皇」(立身出世主義!)であれ、またはむきだしの富や権力や名声(各種アニマル!)であれ、心まずしき近代人の生の意味への感覚を外部から支えようとするこれらいっさいの価値体系は、精神が明晰であればあるほど、それ自体の根拠への問いにさらされざるをえず、しかもこの問いが合理主義自体によっては答えられぬというジレンマに直面せずにはいないから、このような価値体系は、主体が明晰であればあるほど、根源的に不吉なニヒリズムの影におびやかされざるをえない

P.211
自然科学の語る真理は、宇宙のいっさいが物質の過程にほかならぬことを教える。われわれが死ねば自然にかえるのみであり、人間の「意識」も人類の全文化もまた、永劫の宇宙のなかでの束の間のかがやきにすぎない。この物質性の宇宙の外に、どのような神も永遠の生命も存在しない。
ここまで幻想を解体し認識を透徹せしめた時に、はじめてわれわれは反転の弁証法をつかむ。われわれの、今ここにある、一つ一つの関係や、一つ一つの瞬間が、いかなるものの仮象でもなく、過渡でもなく、手段でもなく、前史でもなく、ひとつの永劫におきかえ不可能な現実として、かぎりない意味の彩りを帯びる。

P.213(カール・マルクスの言葉)
私的な所有の止揚ということは、人間が世界を人間のために、人間によって感性的にみずからのものとして獲得するということであるが、このことはたんに直接的な、一面的な享受という意味でだけとらえられてはならない。すなわち、たんに占有するという意味、所有するという意味でだけとらえられてはならない。人間は彼の全面的な本質を、全面的な仕方で、したがって一個の全体的人間としてみずからのものとする。世界にたいする人間的諸関係のどれもみな、すなわち、見る、聞く、嗅ぐ、味わう、感ずる、思考する、直感する、感じとる、意欲する、活動する、愛する、こと、要するに人間の個性のすべての諸器官は、対象的世界の獲得なのである。

考えたこと

  • 外的なある特定の何か、あるいは行動をおえたところにあるものを目的とする人生は、ふとした瞬間にニヒリズムに陥り、もろく崩れ落ちる危険性を構造的に内包している。(これは螺旋的発展過程で自分が経験したこと)
  • P.211で作者が言う「反転の弁証法」という表現は、感覚的には理解できるけれども、それを感じたことの無い人に対する説明としては不十分。私の残された人生の中で、このことをもう少しうまく言語化したい。
  • マルクスエンゲルスは、対象世界の獲得がすべて自分の脳を通過してはじめて行われることを正確に理解していた。主観と客観の同一性である。それゆえに、あらゆる事象、事物、すなわち宇宙全体と自分がつながっている感覚を感じることができるのだろう。

 
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