「気流の鳴る音」に関するメモと考察2

P.227
われわれとしてただ綽々と、過程のいっさいの苦悩を豊饒に享受しながら、つかのまの陽光のようにきらめくわれわれの「時」を生きつくすのみである。

P.229
解放のためのたたかいは必ずそれ自体として解放でなければならない。

P.230
ドン・ファンやドン・ヘナロの生きる世界や、インドやブラジルやメキシコのインディオたちの生きる世界は、さしあたりわれわれにとって<異世界>としてたちあらわれる。けれども私はこれらの世界を、異世界としての異世界として描こうとしたのではない。現代社会をひとつの凝固した物象としてみるのではなく、その存立の構造においてみるかぎり、巨視的な世界の構造においても、微視的な自我の構造においても、これら<異世界>への抑圧のうえにはじめて、われわれの合理化された日常性がなりたっていることがわかる。そうであればこそ、それらはけっして我々の生きる世界の外なるユートピアではなく、われわれ自身の世界の内部、自我の内部に呼応する解放の拠点となるのだ。われわれの自我の深部の異世界を解き放つこと

考えたこと

  • 異世界を知ることは、同時に自身を知ることである。
  • 自我の内部も含め、存在するあらゆる思考、事象、文化、自然などすべては、独立しているのではなくすべてがつながっており、同時に時間性の中に放り込まれ、変化している。
  • 弁証法(螺旋的発展、対立物の相互浸透、量質転化、否定の否定)の理解が、自己と全世界、全宇宙の同一性を理論的に理解する直接のカギである。一方で、日常の中に、文化の中に、自然の中に、それを感覚的に理解する直接の機会が無数にある。

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