青木保「多文化世界」岩波新書(2003年6月)

多文化世界 (岩波新書)

多文化世界 (岩波新書)


先日読んだ「異文化理解」という本が面白かったので、1月末の日本一時帰国時に購入しておいた本。
文化については台湾に赴任してから日常の問題として何かと興味を持っているので、非常にために
なった。「異文化理解」が入門的であったのに対して、「多文化世界」は踏み込んで議論しているので
非常に面白い。下記のようにためになることがたくさんあった。なお、下記には記さなかったが、
日本の宗教観に関する特殊な状況について詳細を学べたことも大きかった。
 

P112
私たちは、この世界が「多文化世界」であること、それをよく認め合うことに生きる条件があると
いうことをきちんと認めたうえで、それぞれ国も地域も文化も異なるところに生きる人間の共通項を
探っていく努力を、もっと本気になってする時代が来たと思います。これまでの西欧化、近代化、
グローバル化という変化の流れの中では、とかく「多文化世界」であるという事実が忘れられ、
多様な「文化の魅力」は追求されることが少なく、一つの思想や主義・主張、あるいは一つの
神や信仰によって世界を一様化しようという動きが非常に強かったわけです。これは「西欧モデル」
による「脱亜入欧」という形にもなりましたし、「近代化モデル」の追及という新興国家の
発展志向にもなりましたし、いろいろな形での宗教原理主義や過激主義ともなって現れました。
しかしいま、数多の悲惨な出来事や取り返しのつかない損失を見てきたところから、この世界の
今後を考えるならば、「異文化理解」を通して「多文化世界」を擁護し、「文化の力」を見つめ直す
ことを通したその実現を目指し、人間が共に生きていくうえでの共通項を探ることこそ、二十一世紀の
世界の平和と反映の条件ではないでしょうか。グローバル化の中での調和した世界というものが
もし可能であるとすれば、それは「多文化世界」の認識を土台にしたものであろうと思います。
 
P109
(サー・アイザイア・バーリンが1988年2月に行った講演「理想の追求」で語った内容と著者の
考えを総括して)
バーリンが「理想の世界」で主張していることは、われわれ人間の問題に対して、一つの解決方法
しかない、それが「究極の解決」であると思い込むこと、あるいはそういう見方や思想を信じる
こと自体が反人間的な行為であって、そういう面での「理想の追求」に対しては、注意深く
冷静に批判的にならなければいけないということです。
個人一人が幸福になっても他人はそうはならないし、自分はこれが正しいと思ってもほかの人は
必ずしもそうとは思わない。人間と社会にはいろいろな選択肢があって、それを調整することに
意味はあっても、一つの解決だけをある個人が他人に押しつけることは非常に大きな弊害を
招くということは、いくら言っても言い足りないことではないかとさえ感じます。
 
P110
(バーリンの結論と著者の考え)
「最終的解決という観念そのものはたんに実践不可能というだけではない。いくつかの価値は
衝突せざるを得ないという私の考えが正しいとすれば、それは矛盾してもいるのである。」
いろいろな価値があり、必ずしも価値は統合できないというのが人間の現実であるとすれば、
「最終的価値」というのはそれ自体が矛盾している主張であることになります。
「最終的解決の可能性は幻想であり、しかもきわめて危険な幻想であることが明らかになる
であろう。というのは、もしそのような解決が可能だと本当に信じるなら、それを得るために
いかなる犠牲を払っても惜しくはない筈ということになるからである。」
人類を永遠に公正で幸福な、創造的で講和的なものにするためには、いかなる代償を払っても
決して高すぎることはないという主張は、現実にそれが実行されたとき、非常に間違った
危険な結果をもたらします。スターリンもヒトラーも、ポル・ポトも、麻原彰晃も、独裁的で
全体主義的な指導者や宗教家は皆そう信じ、そう主張したと言えましょう。その結果が
大きな災いをもたらしたのは、いまや衆知の事実です。
 
P111
バーリンのような文化多元主義的な見方は、人類として生きていく基本的なレベルでお互いに
理解できることをよく確かめ、それを尊重し合い、そのうえで価値観の違いに調和を持たせる
ことを促しています。しかし、それは人類全体にとって同じ物事の解決方法があるということ
ではなく、人間がそれぞれに文化として発達させた価値は多様であって、その多様な価値を
それぞれ尊重しながら、何が共通の認識であるかということを、人間のより調和的な世界を
達成するために考えていくという姿勢が、その基礎になります。この見方は「文明の衝突」論の
対極にあると言ってよいでしょう。「文化・文明の衝突」を問題にすること自体は、まさに
重要なことですが、世界を「文明の衝突」状況として捉えることは、強大な文明に属すことからくる、
反人間的で「自民族中心主義」的な見方と言えるかと思います。
 
P193
文化の力を高めることは非常に重要であり、これまで述べたように政治体制から社会制度、
教育や組織のあり方、人々の意識、外国語の活用など、全部が文化の力を高めるということにおいては
関連し合っています。各国、各社会、あるいは各地域が文化の力を高め、お互いに競争し合いながら
魅力を発揮していくことによって、初めて「多文化世界」は現実の形となって現れてきます。
このことは何度でも強調したいと思います。私の言う「多文化世界」は、ただ単にこの世界に
さまざまな文化が存在している状態のことを言うのではありません。また自己の文化的
アイデンティティを主張することでもありません。(中略)それぞれの文化が、文化度を高める
積極的な努力をすることによって、一つのグローバルな世界を構築していくという意志の表れ
となる世界が、「多文化世界」です。
 
P197
文化の力は、人々が豊かな気持ち、あるいは、楽しめる気持ちで生活し、他の国の人々や
異文化を持つ人々とともに生きていけるのか、ということにかかっています。この場合の「力」は、
文化の支配的な力ではなく、自発的な力です。一国だけでいくら文化の力を発揮しても、隣の
国がそうでなかったら、これは「多文化世界」にはなりえません。これからの世界を考える場合には、
「文化は力なり」ということを各国、各社会が深く受け止めて、いかに自分たちの生活から世界に
向けて文化を魅力的に発信していくかが、大きな問題になります。「多文化世界」と「多文化社会」
とは違います。つまり、自文化のアイデンティティを主張しあうことにはとどまらないのです。
 
P198
これまでさまざまな思想家が述べ、現在でも強調されているような世界平和論、あるいは公共圏を
めぐる思想、公共哲学について思いをめぐらすたびに、私がいつも不満を感じるのは、文化の
ファクターがほとんど考慮されていないということです。まず第一に、この世界に文化がいかに
多様に存在するものであるかという基礎的なことに対する配慮がないと感じられてなりません。
いくら公共性を説き、あるいは平等性を説いても、人間が平等性を享受できるような文化的な
価値観がなければ、あるいは文化的な楽しみというものがなければ、意味がないと思うのです。
(中略)文化と人間をめぐって共通に認識すべきことや、共通に守らなければいけないことを、
どこで考え合わせたながら、私たちのグローバルな世界を創り出していくのか、という問題は、
実はこれから私たちが考えていくべきテーマであり、それこそ新世紀における人間の基本的な
問題であると言っても良いでしょう。私は少なくとも「多文化世界」をつくるという認識が、
その基礎の一つになるべきものだと思います。
 
P218
グローバルかと情報化の時代は、従来はお互いに知らずに済んだ人たちを近づけ、否応なくその
「文化」の違いまで感得させてしまう。「文化」の違いをめぐるき悲喜劇は、こうして日常の
出来事となりました。
(中略)私は「文化」を政治問題化することには、大きく反対を表明したいのです。本文中にも
指摘した考え方ですが、文化は人間にとって「第二の自然」として作用する部分が多大であるので、
差異や差別、対立や衝突や紛争の要因に「文化」の違いを持ち出されれば、どうしようもない
混迷に陥るか、出口のない絶壁に突き当たるか、しかなくなってしまいます。
「異文化理解」をあくまでも基礎として、「多元主義」をはっきりと意識し、「強調と説得」の
道をひたすら進むのが、まさに現代の国家・社会・人間の取るべき態度であると思います。

文化についていかに深く考え、行動していくかで人生の深みが大きく変わる時代になったと思う。
文化は数え切れないほどたくさんあるから、異文化に触れ、自分をみつめなおすということが
ほぼ無限にできる。これはとても素晴らしいことである。