茂木健一郎「意識とはなにか−<私>を生成する脳」ちくま新書

意識とはなにか―「私」を生成する脳 (ちくま新書)

意識とはなにか―「私」を生成する脳 (ちくま新書)


まえがきを読んだだけで、この本は私に「Massive impact」を与えることになると予感した。
読み終わった後、やはりこの予感が的中していた。驚愕の内容。自分の中では歴史に残る一冊。
また、すごく本質的で難しい話を、これほど丁寧にわかりやすく言葉で表現できるということにも
大変驚き、勇気づけられた。
昨日の渡部先生の本に続き茂木先生の本も、重要、あるいはまた読み返したいと思う箇所に
引いた赤線が多すぎて、うまくまとめられず困ってしまうなぁ。
抜粋してしまうとなかなかわかりづらい箇所が多いが、キーとなる箇所を書き出してみる。
 

P204
朝、目が覚めると、それまで何もなかったところに、<私>が生まれ、クオリアに満ちた私の体験が
生まれる、というのは、この世界について私たちが知っている驚異のうち、最大のものであると
言っても過言ではない。

この自分の中でうまれる「意識」とはいったい何か、を考えることはとても「難しい」ことであるが、
自分自身にとってはとても有用であると思う。今まで、膨大な時間をこの難問に割いてきたが、
そのおかげで今の自分の根幹が形成されているようにも思う。
 

P139
日常生活の体験を考えても、人間にとって、自分が何者かであるという認識は、徹底的に他者の
視線を前提にしたプロセスであると言える。成人になって、個が確立したように思われる場合にでも、
私たちの自己の認識は、他者との関係によってかなり左右される。さらに突き詰めれば、自己という
「同一性」は、他者との関係性によって生み出されるものであるとさえ言えるくらいである。
私たちは、成人した後は多かれ少なかれ「本当の自分」という個が確立していると考えがちである。
しかし、実際には、他者との関係性によって、まるで魔法のように新しい自分が生み出されるという
現象は普遍的に見られる。関係性の数だけ自分があると言っても過言ではない。

最近、本をたくさん読もうと思うのと同時に、いろいろな人といろいろな話をしようと心がけている。
上記の箇所を読んで自分がなぜこのようなことに心がけようとしていたのかが、理論的に説明できた
ような気がする。
 

P161
一番大切なことは、クオリアも、<私>も、世界の中に最初から存在するものではなく、脳の神経活動を
通して生み出される(生成される)ものであるという事実を認識することである。<私>という存在も、
私たちの心の中で感じられるものの同一性(<あるもの>が<あるもの>であること)も、最初から
世界の中に存在するのではなく、むしろ、その瞬間瞬間に新しく生み出されつつあるものなのである。
そもそも脳は、「意識」という、それまで世界のどこにも存在しなかったものを生み出す臓器である。
P164
<私>は、間断なき生成の作用を通して常に変化する存在である。

私たちが持っている「脳」そのものが常に生成・変化しているというのは非常に興味深い。
地球上で発生し変化しているダイナミズムと同じことが、人間の「脳」でも起きていると思うと自分の
無限の可能性が開けてくる。もっともっと変われる、もっともっと成長できると思えるのである。
 

P167
<私>という存在は、他者とのかかわりの中でダイナミックに変化していく存在なのである。
誰でも、小学校入学の時の自分が、どのような存在であったかということを「あの時、私はこうだった」
という形で覚えている。そのような自分が、小学校という新しい環境の中で、どのように変化して
いったかも覚えている。そのような記憶によって支えられた「同一性」の系譜によって、「小学校
入学の時の私」と、「今の私」は同じ<私>であると思いこんでいるのだ。
しかし、冷静になって考えてみれば、成長の過程を通して、<私>は人のかかわりの中であまりにも
劇的な変化を遂げている。以前の<私>と今の<私>は、はたして同じ<私>なのであろうか、
といぶかしく思われるほどである。記憶や意識の連続性があるからこそ同じ<私>だと思っているが、
あの時の<私>は、今の<私>とはたして同じ<私>であろうかと疑問に思われるほど、実際には
激変している。
(中略)誰にでも、自分を変えた他者とのかかわりについての思い出があるはずだ。それほど劇的な
かかわりではなくても、私たちは、毎日の穏やかな他者とのかかわりの中に少しずつ変化していき、
気がつくと、前の自分とは思えないほど違う自分に変わってしまうのである。
(中略)高度の文明を発達させた人間にとって、生存の条件、よりよく生きることの条件は、
自然環境への適応ではなく、社会の中での他者との関係性の中で決まってくる。

他者との関係性をないがしろにしてしまうと、自らのアイデンティティに致命傷を負うことになる。
なぜなら他者とのやり取りの中で、つねに自分の中のあらゆるクオリアが見直され進化していくが、
結局はそのクオリアのかたまりが「自分」なのだから。