中埜肇「弁証法 自由な思考のために」中公新書(1973年)★★★★☆

弁証法―自由な思考のために (中公新書 322)

弁証法―自由な思考のために (中公新書 322)


本日はまとまった時間をつくり、あらためて弁証法を学んだ。
 
今まで、弁証法、複雑系、時間概念、多様性に対して個別に興味を持ち探求して
きたけれども、それらが実はすべて直結していたということに気づく。
 
そして「直感」というものへの絶大なる信頼が生まれる。
自分の志向しているものは、すべて自分に必要なものなのである。
 
Ⅰ.対話と弁証法の構造

  • 弁証法は論理でもなければ、法則でもなくて、ひとつの「思考方法」なのである。
  • 現実の真理は、もともと近似的なものである。
  • 一般的に考えて、絶対的な真理というものは人間に与えられているものではなくて、人間に対して不断の探求の目標として課せられているものと考えるべきである。
  • 対話および対話的思考は、絶対的真理に限りなく接近し、総体的真理をつぎつぎと発見していくための方法である。

事実と情報

  • 事実そのものはひとつであるが、それの複雑な構造に由来する本質的な多義性のために、それに関する情報(そのひとつひとつは一義的である)は必然的に多数であらざるを得ない。
  • 逆にいえば、どの情報も自分が事実に関する絶対の真実を伝えていると主張する権利はないはずであり、また私たちにとって大切なことは情報と状況とを混同せず、「語られた真実」と「事実そのもの」とを明確に区別したうえで、ただひとつの情報にのみ完全に頼りきることをやめ、できるかぎり多くの情報を蒐集し、それらを比較対照し吟味検討することによって「事実そのもの」へできるだけ近接することであろう。

対話の条件

  1. 二人の語り手の間に共通の話題があること。
  2. 先行する発言Taは部分的なものであるから、自分自身のなかに否定性(欠陥)を含むこと。つまり肯定的なものは必ず否定的なものを含んでいること。
  3. したがってTaは必然的に自分を否定しながら補うようなTbを産みだすこと。
  4. TaとTbとは相互に相手をはっきりと志向する対立関係にあること。

 相手の発言に対して「ノー」(または「しかし」)と言ってこそ、そこに初めて対話が産まれる。「ノー」こそが対話を生み出し、これを発展させる。相手の発言に対して「イエス」と言うだけでは、人間関係はかえって沈滞し、社会は多様性を失って索漠となり、知識や思考は不毛化することになる。
 しかし他方で、(中略)「聞く耳をもたぬ」人間にとって、対話があり得ないことは言うまでもない。対話は自分が主張する権利と同時に相手がこれに反対する権利を認めるところにのみ成立つ。したがって対話は本質的に権利の平等を(もちろんその裏返しとして義務の平等をも)前提とするデモクラティックなものである。独裁君主と汲々としてこれに追従する臣下との間には対話はない。

弁証法の本来の考え方

  1. すべてのものは、それが有限であるかぎり、必ずそれ自身のなかにみずからを否定するものを含む
  2. 最初から対立があるのではなく、対立はすべてのものの有限性・否定性から必然的に生じてくる。
  3. 対立する二つのものはたがいに他の存在を前提し合い、相互に他の存在理由となるから、相互に否定しながら、同時に相互に肯定するということになり、このことはまた両者がたがいに補い合うという相補性の関係にあることをも意味する。
  4. この対立は必ず一致に達する。統一は本質的には和解である。すなわちそれは対立するものの一方が他方をすっかり無視したり、完全に撲滅打倒するのではなく、程度の差はあるにせよ、何らかの仕方で両者がともに生かされるような和解的な統一である。
  5. この和解的統一は決して恒久的・究極的なものではなく、あくまで暫定的なものである。

連続性
 万有はすべて連続的な発展と生成のなかにある。静止といえども実は運動の特殊状態にほかならないし、死も生の極限状態なのであって、両者の間に断絶はない。弁証法はすべてを連続的にとらえる。しかも単純な直線的連続ではなくて、対立と否定とを介したジグザグ的な連続である。弁証法は生命(運動と発展)の思考であって、死(静止と停滞)の思考ではない。しかも弁証法において生と死とは断絶したものではなく、生はつねに死を含み、死のなかにも生がある。こういう連続的な思考のなかで時間性が重要な意味を持つことは明らかであろう。


Ⅱ.弁証法の精神

独断からの解放

  • 弁証法の精神的な特質として第一に挙げるべきものは、その思考が人間の心を独断から解放するということである。私たちが真実を探求しそれを発見しようとする時、最大の障害となるのは独断(ひとりよがり)であろう。独断はすべての理性的な思考と学問の敵であるが、これは自分を絶対的に正しいものと考え、自分に対する一切の批判を拒否するところに生まれる。(中略)ひとは他人と対話することによって、自分がけっして絶対的に正しいとはかぎらないことを自覚して、みずからを相対化し、自分の考え方の欠陥を認識してこれを補い、いわば洞窟の思考から広場の思考へと移ることができる。弁証法は自分自身の立場にけっして固執するのではなく、つねに自分自身が過誤を犯し得るものであることを自覚し、自分を否定する他者を想定し、そういう他者との対立を媒介にして自分をいっそう高次の立場へと発展させる思考であって、本質的に広場の思考であるということができよう。
  • 弁証法は非独断的、理性的、公共的、民主的な「開かれた」思考であり、みずからに対しても他に対してもいっさいの絶対化された権威を否定する。「すべては疑われ得る」というモットーが弁証法精神の中核にある。したがって弁証法が批判性と懐疑性とを失って、みずから権威的となったら、ましてやいかなる意味でも権力と結びつくようなことがあったら、それは自己矛盾であり、みずからを単なる形骸と化せしめて破滅への道を歩むことになるのである。

非固定性・柔軟性

  • 弁証法は本質的にダイナミックで進歩的なもの、連続的な生成の思考である。真理は徐々に自分を明らかにするもの、つまり生成するものであって、存在する不動のものではない。弁証法で扱われるのは変化し動くものであり、生まれたり死んだりするものであって、不生不滅・永遠不動のものではない。ゆえに弁証法は「在りて在る」ところの神に対しては適用されない
  • すべてのものが、たとい真理といえども、流動的・変移的であって、つねに否定される可能性を持つ。したがってすべてが相対的である。

現実と理論・思考方法

  • 現実がまず存在し、それを思想的に処理するために理論や思考方法がある。前者が後者に優先し、後者が前者に従属するのであって、けっしてその逆ではないし、また逆になってはならない。弁証法も現実を理解するための思考の方法であり、思考の道具であるが、これはたえず流動し変化する多様な現実をさながらに思想的に把握するべきものであって、現実に手を加えて、これを自分に合致させるために改変するものであってはならないし、またそういうものであることはできない。

論理学

  • 論理というのは、ほんらい純粋に形式的なものであり、内容をまったく捨象しても(いや内容を捨象してこそ初めて真に)有効な法則や基準なのであって、それを適用して与えられた命題や推理や理論の正当性を判定するためのものである。
  • 論理学の形式的法則を用いても真理を発見することはできない。ベーコンやデカルトなどルネサンスの学者たちが痛感したように、形式論理学というものは新しい真理の発見にまったく役立たない、本質的に非生産的なものであった。それはすでに確立された真理を確認するためにしか働かないからである。

具体性

  • 現実がたえず変動している以上、現実を把握しようとする思考もたえず運動しなくてはならない。すなわちいつも自分自身の限界を自覚し、自分自身を否定することによって、たえず自分自身を新しくするという努力を傾けなければならない。弁証法はそういう不断の努力の思考であって、停滞する怠惰の思考ではない
  • 人間であろうと自然であろうと、無機的な物質であろうと生命体であろうと、すべてはそれ自身がひとつのシステムである。ここでシステムとは全体が多くの部分から成り、各部分が相互媒介の関係にあると同時に、全体と部分との間にも相互媒介の関係が成立ち、しかもこういう全体と他の全体との間にも媒介関係があって、相互に関連しながらもうひとつ大きな全体を構成するようなものである。そしてこういう複雑なシステムはたえず変動する。現実とはまさしくこのようなシステムの複合体、システムのシステムにほかならない。この現実は、弁証法によってしか把握されない
  • 弁証法は、もともと私たちのあたりまえの健全な思考のなかに働いている常識的なものである。

 
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