不完全であるがゆえの人間の素晴らしさ

直感で「この人と話をしてみたいな」と思った人とは、やはり話をしておくべきである。
 
その方と話していたら、自然と本質的な話となった。
自分が望むことは、自分が無意識のうちに求め、いつの間にか手に入れている。
人間というのは、元々そのような能力を持っている。
 
さて、その方いわく、「自分が人に良くない影響を与えることが怖い」という。
言語では自分の考えや気持ちを100%正確に伝えることができないから、そこには
少なからず誤解が生じる。
その誤解が、相手の人生に良くない影響をあたえてしまう可能性があるので、
それが怖くて自分の考えを素直に相手にぶつけることができないというのである。
 
そして、「考えていることや感じていることを100%正確に相手に伝える能力、
すなわちテレパシーのようなものがあれば、と思ってしまう」
ということであった。
 
ここまで相手のことを思い、考えている方がいるということに対して感動した。
なるほど、そのような考え方もある。
 
一方で直感的に、このような姿勢を貫いていると人生の面白みのうち、いくらかが
奪われてしまうのではないか、人類社会が今日まで発展してきたその事実から
鑑みると、この考えは少々イラショナル・ビリーフなのではないかと思ったのも
事実である。
 
このように思いながら日々過ごしている方に対して、何とかしてその思考を
前向きなものに変えてあげたいと思い、熟慮した上で以下の回答をした。
 
「自己が、言語および非言語コミュニケーションを通じて、他人に対して自分の考えや
 感覚を100%完璧に伝えることは不可能である。例えば、目の前にあるワインの味を、
 多くの形容詞を用いようとも、また、多くの時間を費やそうとも、100%完全に
 表現し尽くして相手に完全に理解してもらうことは決してできない。
 
 つまり、人間社会を根本から形成するコミュニケーションというのは、本質的に
 『不完全』なものなのである。
 
 もし仮に、あなたが理想とするように誰もがテレパシーという能力を有していて、
 自分の考えや感覚を相手に100%理解させる(あるいは逆に自分が理解する)ことが
 できるとするならば、自分が過去の人生で築いてきたすべての経験、思考などの
 総体である今の自分、すなわち個性が一瞬にして、あたかもパソコンのデータ
 コピーのように相手に伝わってしまうのであるから、それは自己という、
 貴重なかけがえのない存在価値を無にしてしまうことになる。
 
 すなわちその瞬間に、自己は存在意義を失い、人間社会全体のいとなみや、
 多様性による温かみや、人と共感したときの感動や、人に自分の考えがわかって
 もらえないときのもどかしさなど、非常に多くの貴重な体験機会を失ってしまう
 こととなるであろう。
 
 人間、およびその集合体である社会は、その認識の不完全性ゆえに、この素晴らしい
 システムを保っているのだと思う。
 
 だから人間は、相手に100%すべてを伝えられない、その不完全性により素晴らしい
 感情や、その集合体である社会を構成できるのである。
 であれば、私たちは100%すべてを伝えられないことを懸念して、相手に影響を
 与えないように生きるのではなく、考えたことや感じたことを極力正確に、
 そして一生懸命相手に伝えようとし続けることが重要なのではないかと思う。」
 
★↓ランキングに参加中。ワンクリックするだけで投票になりますので1日1回クリックをお願いします。
にほんブログ村 本ブログ 読書日記へ