茂木健一郎「疾走する精神」中公新書(2009年5月)★★★☆☆

(P.22)
「今、ここ」のミクロな可能無限と、地球に広がる多様性を結ぶのは、たった一人しかいない、この「私」である。そのことに気づいた時、世界は今までとは違った光を放って微笑み始める。

(P.24)
人は、正しいことよりも、自らが望むことをなそうとする。

(P.31)
この世に驚嘆すべき新しい知が現れる時には、必ず、多様性の高度な凝縮がある。創造性は一般的な生命原理の一部分である。生物が交配しを通して進化するように、人間が生み出す知もまた、異なる要素が凝集することによって先へと進む。

(P.40)
「私」という存在を、激動にもかかわらず必死になって維持しようというホメオスタシスの作用が存在してこそ、安心して遇有生に身をさらすことができる。実際、勇気を持って変化に飛び込むことができる人に、強靭な自我を持つ人が多いことは、人生に経験に照らしても明らかではないか。

(P.46)
さまざまな人々が異なる戦略をとり、全体としてバラエティが増したほうが、人間という生物種全体としては、むしろ適応的である。生死にかかわるような状況においては、たとえ、ある選択をした人が不幸にして死んでしまったとしても、別の選択をした人が生きのびれば生物種としては存続できるからである。全体が同じ選択肢を選んでしまっては、環境の変化や予想のできない事態に対して脆弱になってしまう。

(P.54)
脳は、未来を予想するために、過去の体験を総動員しようとする。

(P.85)
世界の中にさまざまな事象があるという「奇跡」は、私たちの内なる鏡がそれを映し出すことによって完成される。宇宙の多様性は、私たち人間の内なる多様性の中に反映されて、はじめていきいきと動き出すのである。

(P.120)
「学ぶ」とは、古い自分が少しずつ壊れていくことを意味する。

(P.138)
制約があってこそ、はじめて逸脱が生じる。制約は自由の対義語ではない。むしろ、それを育む土壌となり得る。制約とそこからの逸脱をいかにうまく混淆させるか。これこそが、すなわち、遇有性の文化である。

(P.139)
自由について考察するものは、自らが置かれた制約を憎んではならない。(中略)制約から逃れようとするのではなく、むしろ受容し、もって安全基地として跳躍しようと覚悟を決める時に、私たちはこの不条理な地上の生のありさまを、心の底から愛することができるようになる。制約と向き合う覚悟こそが、多様性を生み出す豊饒の海への道を開くのである。

 
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