外山滋比古「知的創造のヒント」ちくま学芸文庫(1977年11月)★★★★☆

知的創造のヒント (ちくま学芸文庫)

知的創造のヒント (ちくま学芸文庫)


外山さんが本書の前半でトライしていることは、私がいつか活字で表現したいと考えていることと
かなり近いと思った。
 
普段はだれも触れようとしないこと、仮に触れようとしても、そもそもそれを語るためのジャンルも
言葉もなく表現が難しい領域に果敢にも挑戦し、「比喩」を使いながら巧みに表現して見事に
まとめあげている。
 
この本に出会えたことに感謝。
求め続ければ、いつかそれに出会える。
まさしくセレンディピティである。
 
後半は、梅棹忠夫さんの「知的生産の技術」や、渡部昇一さんの「知的生活の方法」に似た内容で
それなりに役に立つのだが、個人的には前半部分のインパクトを頭に焼き付けておきたいと思う。
 

(P.10)
啐啄の機ということばがある。
得がたい好機の意味で使われる。比喩であって、もとは親鳥が孵化しようとしている卵を外からつついてやる(啄)、それと卵の中から殻を破ろうとする(啐)のとが、ぴったり呼吸の合うことをいったもののようである。
(中略)早すぎず遅すぎず。まさにこのとき、というタイミングが啐啄の機である。
(中略)時間をかけて温める必要がある。だからといって、いつまでも温めていればよいというわけではない。あまり長く放っておけばせっかくの卵も腐ってしまう。また反対に、孵化を急ぐようなことがあれば、未熟卵として生まれ、たちまち生命を失ってしまう。

啐啄の機。
心の深くにしっかりと根付かせておきたい言葉である。
 

(P.22)
本当に頭のいい人間とは、忘れるべきことを労せずして忘れられる人のことでなければならない。世間が糞詰まりみたいな頭を指して優秀だなどというのは、とんだ誤解である。
(中略)アリストテレスはカタルシスという仮説で芸術の弁護をした。人を殺す芝居を見て、なぜ、観客が快感を覚えるのか。現実に殺人が行われてならないのはいうまでもないが、これが舞台上で行われるのを見て人間が美を感ずるのは、われわれ人間の心の中に生ずる有毒なものを演劇という下剤で浄化(カタルシス)するのだと説明した。芝居もレクリエーション、忘却の一形式と考えられる。逆に、忘却もカタルシスにきわめてよく似ている。

意図的ではないにしても、結局は記憶力が高い者が評価される日本の学校教育。
インターネットが普及して、記憶力が相対的に不必要になってきた今、求められることがいよいよ
本当の意味の「創造力」になり、突如としてクリエイティブなことが求められても、どうすれば
クリエイティブな人材になれるのかを教えられる人材そのものが極度に不足しているという事態。
 
このカタルシスという考え方は、クリエイティビティを考えるうえでとても貴重な発想を
与えてくれるきっかけとなった。
 

(P.30)
ものごとに執着するのは、心の自由にとって大敵である。人間はどうしても、自分を中心にものを見、考えがちで、それが関心と呼ばれる。
(中略)そこで、自然の、あるいは意識的な、忘却が重要となる。もろもろのインタレストのきずなから解放されるのが忘却で、それには日常性からの離脱が求められる。仕事や勉強だけしていては、忘れることが難しく、利害関係の網の目からものがれられない。
(中略)そうして、心をしばるもろもろの関係を切りおとして、無心の境に達して悟りが生まれ、発見が可能になる。英語の disinterestedness は、公平で私心のない状態の意味だが、インタレストを超越したということである。(中略)思考においても、このディスインタレステッドネスこそ最高のタブララサである。
ものを考えようとすれば、ある特定の問題に心を寄せなくてはならないが、関心をもつとたちまち、心の地場にゆがみが生じる。ものがあるべきように見えないで、あってほしいと思う形をとるようになる。思考は不自由にならざるを得ない。はげしい関心をもちながら関心の拘束から自由になる。インタレストをもちながらディスインタレステッドネスの状態をつくり出さなければならない。思考の逆説はそこにある。

物事を捉えるとき、結局は自分の脳を経由してしか見たり考えたりすることができない。
この絶対的事実は覆せないのだけれども、どうすれば disinterestedness の境地に立って見ることが
できるのかということを常に考え続けることはできるのである。
物事を主観的に見つつ、常にタブララサで見ること。
この思考のダイナミズムが求められているのだと思う。
 

(P.58)
英語には、”一晩寝て考える”(sleep it over)という成句がある。発見とか創造といった大それたことではなくても、ひと晩寝て朝になって得られる考えがすぐれたものであることを生活の知恵でとらえたことばであろう。そういえば、たかぶった感情で書いた手紙はひと晩置いてから投函せよという教訓もやはり寝て考える効用を裏付けている。

朝起きたとき、その日にやるべきことが見事に整理されていたり、アイディアが自然と浮かんで
いたりすることがある。
私はそれを「睡眠時思考状態」と名付けて大切にしている。
この「睡眠時思考状態」誘発する方法がなんとなくわかってきたので、それを披露するのも
面白いかな、とこの文章を読みながら考えた。
 

(P.99)
学校などでも、実際の教育もさることながら、校風といったものによる薫陶がなかなか大きな意味をもっている。何年間かそういう雰囲気にひたっていたもの同士には、ある共通の特性が認められて学閥といったものが生まれることになる。われわれは空気からは自由になることは難しい。怖るべきはそういった環境である。
(中略)本当に自由になるための最大の障害はもっとも親しい人たちだという悲しいパラドックスが成立する。真に自分の理想を追求するには、生存そのものの条件であるようなもろもろの絆をあえて断ち切らなくてはならなくなる。

人間はその空気に支配されているという。
目に見えない、空気という存在。
それに対しても断固としてオブジェクティブに立ち向かわなければ、自分の人生を自分で歩むことは
できないのであろう。
 

(P.202)
われわれは毎日、自分の一日という雑誌を編集しているようなものである。部分のひとつひとつは外部から与えられたり、押しつけられたり、他人のものを借りたりしているのだが、それに順序をつけて、一日の中へ収めるエディターシップにおいては独創的であり、個性的でありうる。いかなる人も他人とまったく同じ一日を過ごすことはできない。
それが実り多き一日になるか、ただ夢のように消える一日になるかは、同じ材料を使ってもおいしい料理になるか、ならぬかが分れるのによく似ている。
一日一日がひとつの雑誌であるばかりではなく、一月も一年もやはりそれぞれに雑誌である。われわれは一生かかって、きわめて複雑で大きな雑誌を編集しているのだともいうことができる。自分では何ひとつ新しいことをしなかったと思っても、知らず知らず人生を編集することで、りっぱな創造をしている。こういう創造をしていない人はいない。ただ、それに気付いているかどうかである。
本を読んですぐれた思想や新しい知識に触れる。それをわがものにして、日常に生かしていく。一見まったく模倣のように見えるかもしれないが、これも目に見えない二次的創造、エディターシップである。われわれは自覚しないところでずいぶん創造的なのである。

これは、私の人生に対する考え方や、ブログを毎日更新する意図とほぼイコールである。
びしっと活字でこう表現してくれる大人がいることに感謝をしたい。
 
★↓ランキングに参加中。ワンクリックするだけで投票になりますので1日1回クリックをお願いします。
にほんブログ村 本ブログ 読書日記へ