哲学を持たず、本質的な話ができない大人への怒り

ここ数年「本質的な話」ができない大人がこれほどまでに多いことに幻滅している。
 
そもそも、自分の根底から沸き起こる(私は沸き起こるのが自然だと思っている)哲学を
持たない大人が多過ぎる。
また、仮に哲学を持つ人であっても、思考や成長が青天井であるということを知らないのか、
それが固定化され完成されてしまって、そこに胡坐をかいていることが多い。
このことを考える度に、言いようがない切なさに襲われる。
 
一方で、「本質的な話」ができる大人も(数少ないが)存在するということを知っている。
膨大な数の出版物、インターネットの普及などにより、自分が求めすらすれば、そのような大人の
「本質的な話」に辿り着き、安堵し、inspireされることができる。
 
問題なのは、無限の可能性を秘めている若者や子供が、この「本質的な話」や「本質的な話」が
できる大人の存在を知ることがないまま、成長してしまうことである。
若者や子供たちは、実はその「本質的な話」を求めているはずなのに、その気配を感じることが
できないから、それを求めていることすら忘れていってしまう。
これほど不幸なことがあるであろうか。
このことを思うと、「本質的な話」ができない大人に対して怒りが沸き起こってくるのである。
 
昨日のテレビドラマがどうのとか、Jリーグの結果がどうのとか、あのお店の服がかわいいとか、
この種の話をすることも無意味ではないのだけれども、大事なのは、生死の問題、時間のとらえ方、
成長の本質、創造の本質、思考の無限可能性等々、こういった類の話を大人がしてやることだと思う。
少なくとも、若者や子供たちに考える機会を与えてやるのが大人の務めである。
 
悩みを多く抱える若者や子供たちは、実は「本質的な話」を聞きたいと望んでいるのだと思う。
もう一歩踏み込んで考えると、実は大人たちのなかにもこの「本質的な話」を求めている人が
多いのかもしれない。
 
情報と物に溢れた今日、行き場を失った現代社会に生きる日本人には、ますますこの「本質的な話」
が必要になってくるであろう。
 
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