フリードリヒ・エンゲルス「空想より科学へ」岩波文庫(1883年)★★★★☆

空想より科学へ (岩波文庫 白 128-7)

空想より科学へ (岩波文庫 白 128-7)


大著「反デューリング論」から3章を抜粋して編まれた本。
 
いつかは、マルクスの「資本論」を読まなければならないが、まずは分かりやすい
エンゲルスの本から、と手に取る。
 
そもそも、私は高校時代から大学時代にかけて、「弁証法的唯物論」「唯物史観」
に没頭した。
 
きっかけとなったのは、高校生のときの倫理の授業。
ヘーゲルの弁証法は、観念論であるがゆえに最終的に逆立ちした理論となって
しまっているのだが、そのアウフヘーベンの考え方に共感したのである。
 
その後、三浦つとむの「弁証法とはどういう科学か」という本に出会い、
過去に哲学などを通じて考えてきた思想が一気につながった感じがして
思想にブレイクスルーが起きた。
 
そしてこの度、「空想より科学へ」を読んだ。
この本は、入門書的な位置づけだから詳細については詳しく述べられていない
のだけれども、久し振りに「弁証法的唯物論」の正当性をあらためて
認識させられたのである。
 
100年以上も前に、資本主義や階級闘争はもとより、唯物史観や哲学を総合的かつ
緻密に分析したマルクスエンゲルスの功績は大きい。
 
マルクスエンゲルスというと、どうしても社会主義の理論的支柱となるから
現代を生きる人には敬遠されがちなのだが、ダーウィンの進化論に直接つながる
弁証法について学ぶことは世界の仕組みを正確に把握するうえで有益であるし、
観念論と唯物論それぞれの特性をしっかりと認識しておくことは、
今日のパックス・アメリカーナやイスラム社会の特異性を理解する際に
必要不可欠なことであると思う。
 

(P.56)
どんなに対立していても対立物は相互に滲透しあうものである、同時に、原因と結果といっても、それは個々の場合にそういえるだけのもので、そういう個々の場合をわれわれが世界全体とひろく関連させてみるならば、むしろ普遍的な交互作用という見方に解消されてしまい、そこでは原因と結果とは絶えずその地位をかえ、いま結果であったものが、やがてすぐ原因となり、さらにこんどはそれがまた逆になったりするのである
 
自然は弁証法の検証である。(中略)自然は結局において形而上学的にではなく、弁証法的に動くものである。それは不断の循環運動をいつも同じようにくり返さない一つの現実の歴史なのである。
 
全世界も、その発展も、また人類の発展も、さらにそれらについて人間の頭脳が描く映像も、その正確な叙述はただ、弁証法的方法によって、その生成と消滅、その進歩と退歩との一般的相互作用についての不断の観察によってできるものであることがわかった

形而上学的に物事を捉えることは、限られた事象を研究する際には
便利な方法だけれども、形而上学で全体を捉えることはできない。
 
ここですごいと思ったのが、自然の発展が、まさに弁証法の検証であると
言いきっていることである。
正しくその通りであり、誰も否定することができない見解である。
 

(P.59)
近代唯物論は自然科学の最近の進歩を総括して、自然もまた時間の中にその歴史をもち、天体も条件が許す場合そこに生棲しているであろう生物と同じく、発生し、消滅するもので、一般に、循環運動は許されるかぎり無限に広がるものである

観念論の理論では、ダーウィンの進化論に通ずるこの唯物論を否定することは
不可能であろう。そのスケールの大きさが異なるのである。
かくして観念論の産物である「一神教」というものは、その理論的危機に
立たされることになるのである。
 
あの時、弁証法的唯物論を知ることで大きな一歩を踏み出した。 
弁証法は、世の中に存在するあらゆる問題の解決を促進するのである。
 
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