齋藤孝「読書力」岩波新書(2002年9月)★★★★☆

読書力 (岩波新書)

読書力 (岩波新書)


なぜ読書をしなければならないのか、読書をすることによって何が得られるのかが端的に述べられた本。
 

読書の幅が狭いと、一つのものを絶対視するようになる。教養があるということは、幅広い読書をし、総合的な判断を下すことができるということだ。
(中略)私は大学時代、神秘的な団体を調査したことがある。入信している人たちは決まって、あるところで思考停止をしていた。絶対的な価値観を一つ受け入れ、他を否定する思考パターンに陥っていた。読書の幅も限られていて、自分たちの教義に合致するものが選ばれ推奨されていた。それと食い違う場合には、憎むべき悪書として攻撃していた。世界文学を幅広く読み、具体的な人間理解力を育てようとする傾向は見られなかった。ある種の哲学的問答には強くとも、いろいろなスタイルの人の生き方を味わうような寛容な態度は少なく、ある一定の生き方だけを模範とする傾向があった。
矛盾しあう複雑なものを心の中に共存させること。読書で培われるのは、この複雑さの共存だ。(中略)複雑さを共存させながら、徐々にらせん状にレベルアップしていく。それは、強靭な自己となる。

最後の「らせん状にレベルアップしていく」というイメージは、私も以前から常に持っていた。
すべての物事は矛盾や複雑さを有しているから、まっすぐと成長することは不可能であることに気づいていた。
 

読書は、一人のようで一人ではない。本を書いている人との二人の時間である。(中略)深く静かに語りかけてくる。優れた人の選び抜かれた言葉を、自分ひとりで味わう時間。この時間に育つものは、計り知れない。読書好きの人はこの一人で読書する時間の豊かさを知っている。
(中略)人間の総合的な成長は、優れた人間との対話を通じて育まれる。身の回りに優れた人がいるとは限らない。しかし、本ならば、現在生きていない人でも、優れた人との話を聞くことができる。優れた人との出会いが、向上心を刺激し、人間性を高める。
読書力さえあれば、あらゆる分野の優れた人の話を落ち着いて聞くことができる。実際に面と向かって話を聞く場合よりも、集中力が必要だ。言葉の理解がすべてになるので、緊張感を保たなければ読書は続けられない。自分から積極的に意味を理解しようとする姿勢がなければ、読書にはならない。読書の習慣は、人に対して積極的に向かう構えを培うものだ。

読書は、コミュニケーション力を培う手段なのである。
実際に人と話したり、講演を聞いたりすることよりも、ある面では有効な手段である。
 

本は、本の連鎖を生む。
一冊読むと次に読みたくなる本が出てくる。

興味のあることをさらに追及したいという気になるし、それを追及していくと、さらに広い見地から
研究せねばその特定の事柄も把握できないことに気づく。
また、何よりも自分がいかに無知であったかに気づく。
だから、本の連鎖を生むことになるのである。
 

読んでいると「そうそう、自分も実はそう考えていた」と思うことがよくあるが、多くの場合、そこまで明確に考えていたわけではない。言われてみると、それまで自分も同じことを考えていたと感じるということだ。しかし、この錯覚は問題ない。あたかも自分が書いた文章のように他の人の書いたものを読むことができるということは、幸福なことだ。
なぜ著者はこんなにも自分と同じような感覚を持っているのだろうか、あるいは、まさにこれは自分が書いたもののようだと感じることさえ、私の場合あった。
自分の経験と著者の経験、自分の脳と著者の脳とが混じり合ってしまう感覚。
これが、読書の醍醐味だ。

読書というのは、弁証法の実践そのものだと思う。
上記は、著者と自分の考え方が同じ場合の例だが、考え方が異なる場合でも、脳の中で弁証法的に
生と反が融合されて「合」に至る。
 
トートロジーとなってしまうけれども、本を読まなければいけないと思いつつ、読めていない人には
この本をまず読んでいただきたいと思います。
そうすれば、後で人生を振り返ったときに、あの一冊が人生の転機になったなぁと思える日が来る
かもしれません。
 
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