自分の意見を持つということの難しさ

歴史というものを客観的に捕らえることはとても困難である。
 
人間の歴史は、数え切れないほど多くの人々が織り成し、様々な思惑や策略にもみくちゃにされながら
止めどなく進行しているものである。
ただでさえ現状すら把握することが困難なこの世界であるから、過去のことを誤りなく把握することは
とても困難であり不可能に近いことである。
 
さて、渡部先生の本の中に「教育勅語」を紹介した箇所があり、渡部昇一先生は日本人の素晴らしき
道徳観そのものであるというニュアンスで紹介している。
あらためてその本に記載されている「教育勅語」の全文を読んでみて、私もまさしくそう感じた。
日本人は古きよき日本人の気質や誇りを取り戻し、今こそ胸を張って堂々と主張すべきだ、と。
 
なお、本書の中で引用されており私が読んだのは「国民道徳協会」の訳文である。
この訳文を読めば、多くの日本人は私と同様、その内容の素晴らしさに感嘆することであろう。

教育勅語」明治23年10月30日
 
私は、私たちの祖先が、遠大な理想のもとに、道義国家の実現を目指して日本の国をおはじめになったものと信じます。そして、国民は忠孝両全の道を完うして、全国民が心を合わせて努力した結果、今日に至るまで、美事な成果をあげて参りましたことは、もとより日本のすぐれた国柄の賜物と言わねばなりませんが、私は教育の根本もまた、道義立国の達成にあると信じます。
 
国民の皆さんは、子は親に孝養をつくし、兄弟、姉妹はたがいに力を合わせて助け合い、夫婦は仲むつまじく解け合い、友人は胸襟を開いて信じ合い、そして自分の言動をつつしみ、すべての人々に愛の手をさしのべ、学問を怠らず、職業に専念し、智識を養い、人格をみがき、さらに進んで、社会公共のために貢献し、また法律や、秩序を守ることはもちろんのこと、非常事態の発生の場合は、真心をささげて、国の平和と、安全に奉仕しなければなりません。
 
そして、これらのことは、善良な国民としての当然のつとめであるばかりでなく、また、私たちの祖先が、今日まで身をもって示し残された伝統的美風を、更にいっそう明らかにすることでもあります。
 
このような国民の歩むべき道は、祖先の教訓として、私たち子孫の守らなければならないところであるとともに、このおしえは、昔も今も変わらぬ正しい道であり、また日本ばかりでなく、外国で行っても、まちがいのない道でありますから、私もまた国民の皆さんとともに、父祖の教えを胸に抱いて、立派な日本人となるように、心から念願するものであります。
(国民道徳協会訳文)

 
しかしながら、インターネットで教育勅語について調べていて分かったのは、もう一つ代表的な
訳文があるということであった。
このもうひとつの訳文を読み出せばすぐ感じられるとおり印象がまったく異なる。

教育勅語」明治23年10月30日
 
私(明治天皇)が思うには、皇祖天照大神と歴代の天皇が国を始められたのは、遙か昔のことであり、代々の天皇の御徳は深く厚いものである。我が臣民も、よく忠孝につとめ、すべての国民が心をひとつにして、これまで忠孝の美徳を発揮してきたのは、日本の国柄の最もすぐれたところで、教育の根元もまた実にここにある。
 
お前たち臣民は、父母に孝を尽くし、兄弟は仲良くし、夫婦は協調し、友達は信じ合い、人にはうやうやしく自分には慎み深く、誰彼となく広く人々を愛し、学問を修め業務を習い、知能を伸ばし、徳性と能力を磨き、進んで公共の利益に奉仕し、世の中のつとめに励み、常に憲法を重んじ、法律を守り、いったん国家に危急がせまれば、忠義と勇気を持って国のために働き、天地とともにきわまりない皇室の運命を助けるようにしなければならない。
 
このようにすれば、忠君の心厚い善良な私の臣民だけでなく、お前たちの祖先の残した美風を明らかに表すことにもなる。
 
この道徳は、実に私の皇祖天照大神と歴代の天皇が言い残した教えであり、その子孫・忠臣がともによく守るべきもので、昔から今までを通してあやまりがなく、これを国の内外に行っても道理に逆らうことがない。私はお前たち臣民とともに、心にとどめて忘れず、皆がこの美徳を第一にすることを切に希望している。
現代社会の副読本訳文)

もし自分が学生の時にこのいずれかのみの訳文を読んでいたら、きっと今もそのイメージが
強く残っていてどちらか片方の考え方しかできない(自分が努力してもう一方の訳文を理解しようと
しない)ということになっていた可能性が高いと思う。
私は学生のとき勉強家ではなかったから、幸いそうならずに済んだ。
  
言うまでもなく、前者の訳文が正しいと考えている人は、
「明治までは日本は良い国であった。第二次世界大戦は決して侵略戦争ではなく、ブロック化
経済などで追い込まれていったことなどに起因する日本の自衛である」
と考えることが通例である。
 
一方、後者の訳文を支持する人は、
「天皇制といった極右的な思想が、最終的に日本を侵略戦争に向かわせた主な要因である」
と考えることが通例である。
 
私は現段階で十分歴史を学んだとは言い切れないから、この議論のいずれかを支持し、一方を支持
しないということは到底できない。
この種の議論は中途半端な認識の状態で議論するととても危険だし、本質や事実から離れて
別の争いを生むことが常であるからだ。
 
このようなことをつらつらと考えていてふと思ったのは、一体自分の意見というのは何なのか、
という疑問である。
 
昨今、自分を持たなければならない、意見を言わなければならない、と言われることが多い。
それができないと一人前の社会人とみなされないことも多いから、だいたい就職してしばらくすると
一生懸命自分の意見を言おうと努力するようになる。
 
就職して2-3年も経てばいつの間にか自信が付いてきて、それなりの意見を言えるようになったと
考える。
そして気づけばいつの間にか自分の「こだわり」ができていて、自分の考えをダイナミックに
変えたりすることは悪であると考えたり、それすらも考えないまま気づけば自分が厚い殻に
覆われていたりするのである。
 
このような状態になるともう自分の意見や考えが絶対である。
例えば自分の本質にかかわるような議論を他人と行った場合、相手に説得されて自分の根幹部分を
変更する、ということはほとんどあり得なくなる。
 
このような状況では、しかも限られた情報の中で迅速に意見を述べなければならない社会になって
しまったから、断片的な情報をもとに構築された強固な意見がぶつかり合うこととなる。
 
一日に何十通、多い人は何百通のメールを処理するのが当たり前の企業社会。
そんな中で、一見ごもっともな、しかし実はとても危険な「意見」が携帯電話の3Gの電波の如く
世の中に飛び交っているのである。
 
無限の情報があふれている世の中かもしれないけれども自分が把握できる情報は有限であるから、
少なくともいつでも公平を気取れるようにその努力をすることと、自分を客観的に見続けることは
忘れないでいたいと思う。
 
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