渡部昇一「パスカル『冥想録』に学ぶ生き方の研究」到知出版社(2006年4月)

パスカル『瞑想録』に学ぶ生き方の研究

パスカル『瞑想録』に学ぶ生き方の研究


パスカルには高校の時から興味があった。
しかし、なかなか『冥想録(パンセ)』を読むまでに到らずそのままになっていた。
渡部先生がパスカルに関する本を執筆したことを知って、これはチャンスと思い読んだのである。
初めて知ったのは、下記3点。
 
①パスカルは哲学者としての顔を持つだけではなく、数学者、物理学者、さらにはポール・ロワイヤル
 修道院に入り、当時のイエズス会を批判するなど宗教家としても活躍していたこと。
②『冥想録』は宗教色(キリスト教カトリック)がかなり強いので、『冥想録』を読むためには
 宗教そのものの理解、カトリックの理解、新旧約聖書の理解が必要となること。
③しかしながら、『冥想録』には宗教的な箇所を抜きにしても現代の私たちが学ぶべき箇所が
 非常に多くあること。
 
宗教的なことは残念ながら分からないが哲学的なことに関しては面白かった。
 
パスカルの思想全体を貫き根底をなすものとして、
「人間は極大と極小の間に生きる存在である」
という考え方がある。
これはアリストテレスの「中庸」につながっている考え方であるし、
私自身も高校の時からそうなのではないか、と思っていることであるから、私にとっては
非常に分かりやすく、共感しやすい考え方である。
 
もちろん、現在の私の思考・思想の中にもこの考え方が依然として根底にあるのだけれども、
その後、多少複雑に発展しているのでこの考え方に留まってはいない。
しかしながら、このような哲学的思考をしたことのない方にとっては非常に基本の部分だから
勉強になる可能性もあるし、自分自身も基本をもう一度見返すという意味で、そのポイントを
示すことは有用なのではないかと思う。
 
以下はそのポイントである。

(P.174)
「人間は考えるためにつくられている」
 人間は明らかに考えるために造られている。それは彼の全品位であり、彼の全価値である。
 ゆえに、彼の全義務は正当に考えることである。ところで、思考の順序は、自己から始め、
 それから自己の創造主と自己の目的とに向かうにある。
 
「思考の中に偉大さがある」
 私は、手も、足も、頭もない人間を考えることは充分できる。(中略)だが、私は、
 思考しない人間を考えることはできない。そんなものは、石か、野獣であろう。
 
 思考は、人間の偉大を形成する。
 人間は一本の葦にすぎない、自然のうちで最も弱いものである。だが、それは考える葦である。
 彼を圧し潰すには、全宇宙が武装するを要しない。一吹の蒸気、一滴の水でも、彼を殺すに
 充分である。しかし、宇宙が彼を圧し潰しても、人間は彼を殺すものよりなお高貴であろう。
 なぜかといえば、彼は自分の死ぬことと、宇宙が彼を超えていることを知っているが、
 宇宙はそれについて何も知らないからである。
 そうだとすれば、我々のあらゆる尊厳は思考の中にある。(中略)だから、よく思考するように
 努めよう。これこそ道徳の本原である。

「人間は極大と極小の間に生きる存在である」ということそのものである。
確かに大きな宇宙・世界から見れば一人の人間など非常にちっぽけな存在であるのは事実だけれども、
同時に、人間は「思考する(考える)」という行為ができる存在であるから、その行為ができない
広大な宇宙・世界よりも素晴らしい存在であると言い放っているのである。
現代に生きる私は、この箇所からこう考える。
「時には謙虚に、時には自信を持って、あらゆる環境や出来事を自分の成長のために利用していこう」と。
 

(P.190)
「多様な価値が民主主義を育てる」
 圧制は、他の道によらなければ得られないものを、一つの道によって得ようとすることである。
 人は異なる価値に対しては、異なる敬意を表する。快適には愛の敬意を、力には畏怖の敬意を、
 知識には信頼の敬意を。

渡部先生は、以下のように読み取っている。
「価値にはいろいろとあって、それぞれの違った価値に対しては違った敬意があるはずだ、
 とパスカルはいう。これはつまり、価値の多様性を認識することは独裁に対抗するものである
 という洞察を示しているのである。」
 
パスカルの時代で言えば、多様な価値は民主主義を育てると言った例になるのであるが、
現代に生きる我々にとって、極端に言えば、多様な価値を認め敬意を払うことによって、
「自分自身が劇的に成長し、自分がかかわる全てのコミュニティに良い影響を与え、
 コミュニティ全体の発展を促すことができる」
のではないかと思う。