Dividualismという考え方

平野啓一郎さんの未来小説「ドーン」で提示されていた「Dividualism」という考え方がとても
印象的だった。
 
「個人」を示すindividualという単語は、Divide(分ける、分割する)という単語を元として
接頭語である「in」を付けたものであり、「これ以上分けることができない」という意味で
individual、すなわち「個人」を表現した言葉である。
 
当然、私たちは個人がこれ以上分割されない最小単位の存在であることはわかっているけれども、
現代を生きる私たちの日常をもう少し深く見つめると興味深いことに気づく。
 
私たちが生活のなかで様々な人と接するとき、その相手によって自分の態度、言葉遣い、時には
性格までを使い分けている。
 
たとえば、親と会話するときの自分、古くからの友人と接するときの自分、会社で上司と向かい
合っているときの自分は、当然ひとりの個人でありながら、同時に異なる自分の側面を見せている。
 
すなわち、人は誰しも複数のdividualを持っていると言うことができる。
 
とくにITやWebが発展し、少子化や核家族化、人間関係の希薄化が進む現代においては、数多くの
dividualを持つ人も少なくないだろう。
 
これは私の場合であるが、二十代の頃はひたすらそれぞれの「dividual」の中で生き、それぞれを
成長、発展させていたような気がする。
 
dividualism的生き方も、それはそれで良いのかもしれないけれども、三十代に入って私が
気付いたのは、自分が有するすべてのdividualを統合(弁証法でいうところのアウフヘーベン)する
ことで、爆発的な成長が可能になるということである。
 
例えば、以前からブログに記載している仕事、遊び、勉強それぞれのベクトルを同一化するということ
これは、会社で仕事をしているときのdivisual、友人と遊んでいるときのdivisual、勉強をしている
ときのdivisualを統合するという言い方もできる。
 
個々のdivisualの中だけで生きることも、それはそれで良いだろう。
しかしながらこの世界を生きる自分はひとりなのだし、divisualを再統合することで真の意味での
成長や幸せを謳歌できるのだから、私としては自然な形でdivisualを再統合して、自分自身が真の
「individual」として、生きていきたいと思うのである。
 
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