茂木健一郎「脳のなかの文学」文春文庫(2009年1月)★★★★☆

脳のなかの文学 (文春文庫)

脳のなかの文学 (文春文庫)


初出誌は文學界(2004年4月号〜2005年7月号)、単行本「クオリア降臨」の改題文庫版。
 
ものすごい質量が詰まった本であるため、読むのに時間がかかってしまった。
凄く強烈で、しなやかで、素敵な作品である。
 

(P.98)
人生とは、時々刻々殺されていく可能性の連続である。ある選択をするということは、他の全ての選択を殺すということである。ある選択をした結果、期待したようなことが起こらなかったという「事実」の認識から失望が生じる。もし別の選択をしていたらこうなっていたはずだどいう「反事実」をも認識した時に、後悔が生じる。

(P.125)
人間は、生まれ落ちた時から、他者の視線なしにはやってはいけない。(中略)人間の脳は他者の視線を報酬として必要としているのである。人間は他者とのコミュニケーションなしでは、恐らくは存在し得ない。

(P.138)
全ての意識体験がそうであるように、言葉という体験もまた、私秘的なものである。言葉の意味は、原理的には、プライベートにしか了解され得ない。「ほたる」という言葉に私が感じるニュアンスを、他の人もまた同じそれとして感じているのかどうか、そのことを確認する術はない。(中略)一方で、私たちは、言葉というものが徹頭徹尾パブリックなものであるということも知っている。

(P.140)
初めに言葉ありきと言うが、人間は、言語を獲得した時に何かを失ったのも事実であろう。獲得は、常に喪失と抱き合わせで起こる。

(P.286)
百億光年の物理的空間の中はもちろんのこと、その中の煉獄も、冥界も、極楽も含む無限の仮想空間を旅する人間の意識の志向性と、有限の肉体を持ってカオティック軌跡を辿る人間の生の個別性が、そもそも原理的に完全なる一致を見せられるはずがない。人間が獲得してしまった意識の不思議な作用が自然に発展していけば、どうしても自分の生のスケールなど超えてしまう。自分の生という個別性などにはこだわっても居られない、という一種のニル・アドミラーリ(何事にも左右されないこと)の態度が生まれてくる。

(P.294)
「人間になりつつある一種の動物」にとって、柔らかな有限の生と、結晶的形而上の世界の両方にまたがって生き続けることは、やっかいなことである。しかし、そのやっかいさを引き受けることでしか、言葉の宇宙の私たちにとってのリアリティは保てない。科学が明らかにしてきた統計的真実も、文学が扱ってきた生の個別性も、皆、私たちが生活者であり、同時に生活を超えた普遍者でもあるという事情の中に根ざしている。


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