ヴィクトール・E・フランクル「夜と霧(新版)」みすず書房(1977年)★★★★★

夜と霧 新版

夜と霧 新版


ナチスにより強制収容所に送られた体験を綴った、非常に価値がある作品。
まさに、後世に受け継ぐべき名著である。
 
自分はいかに幸せな時代を生きているか、人はどうしてこれほどひどいことができるのか、
絶望の中で人は何を想うのか、そもそも人間とは一体何なのかなど、めまぐるしく
様々なことを考えさせられる本であった。
 
なおこの本はドイツ語から日本語に翻訳されたものであるが、日本語のタッチは素晴らしく
この作品の重みを余すことなく見事に伝えている。
翻訳した池田香代子さんを高く評価したい。
 

(P.35)
そこに十二歳の少年が運びこまれた。靴がなかったために、はだしで雪のなかに何時間も点呼で立たされたうえに、一日中所外労働につかなければならなかった。その足指は凍傷にかかり、診療所の医師は壊死して黒ずんだ足指をピンセットで付け根から抜いた。それを被収容者たちは平然とながめていた。嫌悪も恐怖も同情も憤りも、見つめる被収容者からはいっさい感じられなかった。苦しむ人間、病人、瀕死の人間、死者。これらはすべて、数週間を収容所で生きた者には見慣れた光景になってしまい、心が麻痺してしまったのだ。

 

(P.82)
価値はがらがらと音をたてて崩れた。つまり、わずかな例外を除いて、自分自身や気持ちの上でつながっている者が生きしのぐために直接関係のないことは、すべて犠牲に供されたのだ。この没価値化は、人間そのものも、また自分の人格も容赦しなかった。人格までもが、すべての価値を懐疑の奈落にたたきこむ精神の大渦巻きに引きずりこまれるのだ。人間の命や人格の尊厳などどこ吹く風という周囲の雰囲気、人間を意志などもたない、絶滅政策のたんなる対象と見なし、この最終目的に先立って肉体的労働力をとことん利用しつくす搾取政策を適用してくる周囲の雰囲気、こうした雰囲気のなかでは、ついにはみずからの自我までが無価値なものに思えてくるのだ。

 

(P.87)
移送と決まった病気の被収容者の痩せ細った体が、二輪の荷車に無造作に積みあげられた。荷車はほかの被収容者たちによって、何キロも離れたほかの収容所まで、吹雪をついて押していかれた。死んでいてもいっしょに運ばれた。リスト通りでなければならないからだ。リストが至上であって、人間は被収容者番号をもっているかぎりにおいて意味があり、文字通りただの番号なのだった。死んでいるか生きているかは問題ではない。「番号」の「命」はどうでもよかった。番号の背後にあるもの、この命の背後にあるものなど、これっぽっちも重要ではなかった。ひとりの人間の運命も、来歴も、そして名前すら。

 

(P.138)
わたしたちが過去の充実した生活のなか、豊かな経験のなかで実現し、心の宝物としていることは、なにもだれも奪えないのだ。そして、わたしたちが経験したことだけでなく、わたしたちがなしたことも、わたしたちが苦しんだことも、すべてはいつでも現実のなかへと救いあげられている。それらもいつかは過去のものになるのだが、まさに過去のなかで、永遠に保存されるのだ。なぜなら、過去であることも、一種のあることであり、おそらくはもっとも確実なあることなのだ。

 

(P.145)
わたしたちは、おそらくこれまででどの時代の人間も知らなかった「人間」を知った。では、この人間とはなにものか。人間とは、人間とはなにかをつねに決定する存在だ。人間とは、ガス室を発明した存在だ。しかし同時に、ガス室に入っても毅然として祈りのことばを口にする存在でもあるのだ。

 
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