フリードリッヒ・エンゲルス「フォイエルバッハ論」岩波文庫(1888年)★★★★☆

フォイエルバッハ論 (岩波文庫 白 128-9)

フォイエルバッハ論 (岩波文庫 白 128-9)


ディーツ版「マルクス・レーニン主義の小冊子」のひとつとして出版された
「Ludwig Feuerbach und der Ausgang der klassischen deutschen Philosophie
(ルートヴィッヒ・フォイエルバッハとドイツ古典哲学の終結)」である。
 
本作品は、フォイエルバッハを論じただけではなく、見事に弁証法的唯物論と史的唯物論
明瞭に説き、観念論としての哲学の終焉をあらためて簡潔に指摘した傑作。
この本に記された文章はどれも印象深いものであった。
 
この本の中で、エンゲルスヘーゲルの観念論に基づく弁証法の誤りを分かりやすく批判しながらも、
キリスト教による抑圧と基本的自然科学の解明がまだ行われていなかった時代背景を考慮し、
ヘーゲルが観念論に留まらざるを得なかったことは当時としては仕方がなかったこととして、
ヘーゲルが体系化した壮大な弁証法という功績を素直に称賛している。
 
フォイエルバッハに対する考察、自らの功績を謙遜する形で行われているマルクスの天才的偉業への
賛美にもエンゲルスの思慮深さが溢れ出て表れており、別の意味でもその偉大さを強く感じた。
 
このような逸材がマルクスという天才と出会った奇跡。
そして見事に作り上げられたマルクス主義が(私個人としてはその中でも唯物論に基づく弁証法が)
今も燦々と輝いている。
 
観念論と唯物論、形而上学に関する考察をはじめとして、ためになった箇所がたくさんあったの
だけれども、弁証法の発展を端的に説明した箇所を参考として記しておく。
 

(P.61)
ヘーゲルにおいては弁証法とは概念の自己発展である。絶対的概念が永遠の昔から――どこにかわからないが――存在し、それはまた現存する全世界の本来の生きた魂でもある。それは、『論理学』に詳しく取りあつかわれている、そして絶対的概念のうちにすべて含まれている、すべての前段階を通って、自分自身にまで発展する。それからこの絶対的概念は、自然に転化することによって自己を「外化」し、この自然のうちでは、それは自己を意識することなしに、自然必然性の姿をとって、新しい発展をし、最後に人間のうちで再び自己意識に達する。この自己意識は再び歴史のなかで粗野な形態から脱却し、ついにヘーゲル哲学のうちで再び完全に自分自身に帰る。だからヘーゲルにおいては、自然と歴史のうちに現れる弁証法的発展、すなわち、あらゆる曲折をもった運動と一時的な後退を通じてつらぬかれている、より低いものから高いものへの進展の因果的連関は、永遠の昔から、どこでか知らないが、とにかくあらゆる思考する人間の頭脳から独立に進行している概念の自己発展の模写にすぎない。このようなイデオロギー的な逆立ちはとりのぞかれなければならなかった。われわれは、現実の事物を絶対的概念のあれこれの段階の模写と見ないで、再び唯物論的にわれわれの頭脳のうちにある概念を現実の事物の映像と見た。このことによって弁証法は、外部の世界および人間の思考の運動の一般的諸法則にかんする科学となった。この二つの系列の法則は実質においては同じものではあるが、その現われ方から言えば次の点でちがっている。すなわち、人間の頭脳はこれらの法則を意識的に使用することができるが、自然においては、また人類の歴史においてもこれまでのところ大部分、意識されず、外的必然性の形をとって、偶然事と見えるものの果しのない系列のただなかで自己をつらぬいているのである。このことによって概念弁証法そのものは、現実の世界の弁証法的な運動の意識された反映にすぎないものとなり、このようにしてヘーゲルの弁証法は逆立ちさせられた。
(中略)世界はできあがった事物の複合体ではなく、諸過程の複合体と見られなければならない。

ヘーゲルの観念論的弁証法は、結局その発展過程を経て「絶対的概念」に行きつくと言っているので
あるから、そこで終わりがないはずの弁証法的発展との矛盾が出てしまう。
私の個人的な考えでは、ヘーゲルはこの矛盾を正確に認識していたのではないかと思う。
キリスト教が政治や社会を支配的に覆い尽くしていた社会において、自分の思想を曲げて表現するしか
なかったヘーゲルは、最後にこの「絶対的概念」というものを置くことによって「神」の存在を
認めなければならなかったのだろう。
 
さて、本題とは少し離れるが、この時代に生きた人がここまでの真理を突いているのには驚愕したので
記しておきたい。
現代を生きる我々にとっては、説明されればすぐ納得できるものなのだが、百年以上前に生きた
エンゲルスが指摘しているとは本当に驚いた。
 

(P.71)
人間を動かすものは、すべて人間の頭脳を通過しなければならない。

見るものも聞くものも、そして人間がある行動を起こすことも、すべては人間の脳という、
恐らくこの世でもっとも不思議なもののひとつを通過する必要があるということを、
どうしてここまで「さらり」と言えたのだろうか。
 
もし自分がマルクスエンゲルスと議論することができたらどんなに幸せだろう。
そんな仮想をせざるを得ないほど、刺激的な一冊であった。
http://cepa.newschool.edu/~het/profiles/image/engels.jpg
 
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