非日常を求めることの意味を

現代美術を久しぶりに見た。
 
日本にいたときは美術館に良く足を運んでいたのだけれども、台湾に来てからはあまり行く機会が
なかった。
日本では特に東京都現代美術館清里現代美術館清里フォトアートミュージアム
大好きでよく行っていた。
 
私は現代美術が大好きだ。
 
なぜ自分が現代美術を好んで見るのか、以前はその理由が良く分からなかったのだけれども、
約7年ほど前に清里現代美術館で美術館員(館長だったかな)の話を伺って、
自分なりに考えて、その理由がやっと分かったのである。
 
「現代美術」というのは、なかなか理解できないものである。
しかしながら、それを無理して理解しようとすること自体、本質ではないのである。
というのも、「現代美術」を理解できてしまったら、その意義はなくなってしまうからだ。
 
「現代美術」を見て、聞いて感じられることというのは「非日常」である。
 
日常の中では目にしないこと、到底考えないこと、ありえないもの、想像できないものを
創造して表現することが「現代美術」なのである。
だから、「現代美術」というものは基本的に理解されてしまってはいけないものなのである。
 
「現代美術」を見る意義というのはまさしくそこにあり、「現代美術」をたまに見ることで
日常考えていないようなことを考えたり、今まで自分が築き上げていた常識や当たり前を
疑ってみたり、普段あまり使っていない想像力という人間本来の能力を呼び覚ますことができる。
 
自分をどんどん成長させるために常に新しいことに挑戦してみようとする意欲。
この能力は、決して先天的なものではなく、後天的に身につけることができると思う。
この能力を伸ばすひとつの手段が、この「現代美術」なのだ。
 
今も、気づけば自然と非日常を求めている。
 
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