茂木健一郎「脳の中の人生」中公新書ラクレ(2005年12月)

脳の中の人生 (中公新書ラクレ)

脳の中の人生 (中公新書ラクレ)


人生という、脳のはたらきとはあまり結びつけて考えられてこなかったことを、脳科学の見地から
結びつけて大変面白い考察をしている本。
これまたためになることばかり。こんな素晴らしい本を、わかりやすい言葉で書き続ける
茂木先生はやっぱりすごいなぁ。
 

P18
(記憶力と編集力について)
一度過ぎ去ったことは、変えることはできないけれども、過去の見方を変えることはできる。
年をとるということは、記憶の「編集力」を通して新たな発見をなし得る、豊かな可能性の鉱脈が
それだけ増えるということを意味するのである。
 
P23
(人はなぜ不確実さを好むのか)
脳は、ジュースもウレシイけれども、不確実さもウレシイと思っているのである。
(中略)ドーパミン細胞は、情動系と呼ばれる脳の感情のシステムにおいて中心的な役割を
担っている。そして、感情のシステムの役割は、生きてゆく中で直面する不確実さにうまく対応
することである、というのが近年の脳科学の知見である。
(中略)不安、喜び、恐怖、退屈といった感情は、不確実さに満ちた世界でうまく生きるために
進化してきたと考えられるのである。不確実さを好むということは、新しい可能性を
探し求めることにつながる。
(中略)不確実さを前に、いたずらに萎縮することなく、それを楽しむことが、よりよい
生き方につながる。

台湾に赴任してからは、この「不確実性を楽しむ」ということがある程度できるようになって
きたと思う。それまでの自分は、結局薄い殻に閉じた世界、考え方の中にいることを求めていた
ように感じる。それが、自ら不確実性を求めていくようになった瞬間、この世界のすべての事象
に対して深い興味を持てるようになったし、自分の無限の可能性や人生の面白さに気づいた
気がする。
 

P50
(どうすれば「ひらめく」のか)
どうやら、ひらめくためには、脳がある程度「退屈」しないとダメなようである。目新しい
刺激が次から次へと示されると、脳はそれを処理するだけで手いっぱいになってしまう。
外から興味深い刺激が入ってこない状態で、脳が自ら何かをつくり出そうとするときに、
ひらめきが訪れるらしい。
 
P177
(脳から見たヴァカンスの効用)
何もせず、ゆったりとする時間を過ごすことで、はじめて立ち上がるプロセスもある。側頭葉の
記憶のアーカイブの中から、大脳辺縁系や前頭前野とのループを通して、さまざまなものが
引き出される。時間をゆっくりとかけるほど、記憶の地層の奥底から、自分でも忘れかけていた
思い出や感情が引き出されてくるのである。ヴァカンスは、何もやっていないように見えて、
実は、脳の中で劇的な変化が起こっている。

南フランスに1ヶ月間バカンスに行って「退屈」を生むことはなかなかできないので、せめて
天気の良い日には外に出て、公園を散歩したり、寝そべったりして考えごとをしてみましょう。
 

P82
私たち人間は、アタマが良い、ということを、どうしても抽象的な意味で考えがちである。
しかし、生きていく上で必要な基本的なアタマの良さは、紙の上で数字の計算をする
ことではなく、世界の中を動き回り、さまざまなものとかかわり合っていく中で自然に
表れてくる知性である。このような、環境とのかかわりの中で実現するアタマの良さを、
エコロジカルな知性と呼ぶ。

日本の子供たちは大学受験のために勉強しているようだけれども、本当の勉強は大学受験の
ためでは無いよ。人生をより良くするための「自分の考え方」「ものの見方」を学ぶのが
勉強だよ。「自分の考え方」「ものの見方」を養うために、今考えると中学・高校時代の
カリキュラムというのは結構有効なんだよね。歴史とか、科学とか、政治経済とか、
倫理とか、英語とか。今、この年になって必死に本を読みあさったりして勉強している
ことっていうのは、結局学生時代に学ぶチャンスがあったものなんです。
 

P148
人間は、一生学び続けることができる存在である。自分がぎこちない、と感じるような
新しいことにチャレンジし続けなければ、せっかくの脳の学習能力を生かすことはできない。
いい年をしてみっともない、などと思わずに、ぎこちなく惑っている自分を楽しむくらいの
心の余裕がなければ、脳の潜在的学習能力を生かし切ることはできないのである。
新しいことにチャレンジするとき、ぎこちなさが現れるのは、個人に限ったことではない。
人類全体としても、新しいことにチャレンジしようとするときは、必ず最初は、ぎこちなさ
が現れる。ぎこちなさを避け、洗練ばかりを追い求めていると、文化の若さが失われてしまう。
 
P206
何が起きるかわからないのが人生である。どんなに工夫して「小さな世界」をつくり、その中に
立てこもって完璧を期そうとしても、必ずそのようなもくろみは破られる。だとすれば、
いっそのこと自分を世界に対して開いて、新しい出会いを志向した方がよい。
(中略)そもそも人間の脳自体が、外から刺激が常に入ってくることを前提につくられた「開放系」
である。ヴァルヴを締めようとしても、完全に閉じることはできない。脳は必ず新しい刺激を求め、
実際に受け入れてしまうのである。

脳自体が「開放系」ということを知ると、やっぱり人間の根源にあるのは前向きな力だったんだ、
と安心できる。だから、「不確実性を求めたりチャレンジすること」というのは、人間にとって
いたって自然なことなのだ。現代の日本で生まれ育つと、決められたルールの中に組み込まれる
観があるので、この「不確実性を求めたりチャレンジすること」を押さえ込まれることが多い。
だから自分自身で考えて、「不確実性を求めたりチャレンジすること」を誰に与えられる分けでもなく
主体的に実践することが必要だと思う。
 

P95
人間は、生れ落ちたときから目新しいことにチャレンジしようとする存在である。
新生児は、生まれてすぐに、まわりの環境を模索しはじめる。自分の身体を触り、
周囲のものを掴み、次々と新しいことを学んでいく。
(中略)子供は本来、探究心にあふれた存在なのである。ただし、子供の中にある
チャレンジ精神が十分に発揮されるためには、一定の条件がある。
(中略)幼児の発達にとって、父母などの保護者が与える心理的な「安全基地」の
存在が必要不可欠であることを見いだした。
(中略)時代の変化とともに、ある程度の変革は避けられない。しかし、痛みの伴う
改革をただ叫んでいるだけでは、私たちの脳の中にあるせっかくの探究心が殺されて
しまうのである。過保護にならない範囲で、探求するための安全基地が一人一人に
確保されることが必要とされる。変革の時代にこそ、私たちの脳の仕組みにかなった
やり方が求められるのではないか。

「安全基地」の重要性を今まで軽視してきた観がある。反省。
 

P126
(セレンディピティ:偶然、幸運に出会う能力」について)
有名なフランスの化学者、ルイ・パスツールは、「幸運は、準備のできた精神に訪れる」
という有名な言葉を残している。(中略)セレンディピティを支える脳のはたらきとしては、
たとえば、偶然の出会いを見逃さない観察力、洞察力が挙げられる。偶然の幸運が訪れても、
それに気付かずに、やり過ごしてしまう人もいる。何かに出会ったとき、その意味を悟り、
偶然を必然にする能力が必要とされるのである。
偶然の出会いは、しばしば最初は無意識の中に感受される。無意識に感じていることを
意識化して、はっきりと認識することのできる「メタ認知」の能力も、セレンディピティを
支える重要な要素である。

   

P132
(脳科学から見た英語上達法について)
脳科学の視点からすれば、処方箋は一つしかない。すなわち、できるだけ多くの英語の
文章を読み、会話を聞くことである。

 

P154
前頭葉を中心とする「ミラーシステム」のはたらきにより、人から人へと感情は簡単に
伝わっていく。(中略)似たもの同士が集まると、どうしても感情が煮詰まってくる。
似たような感情をコピーし合うからである。だからこそ、異質な他社に出会うことの意味がある。
「箸が転んでもおかしい」年頃の少女たちといっしょにいれば、少しのことでも笑い転げて
みようか、という気分にだんだんなってくる。自分がいるコミュニティとは全く異なる感情が、
ミラーシステムを通して伝わってくるからである。自分が元気なときほど他社に向き合う
エネルギーも高まる。元気がなくなると、「感情の引きこもり」に陥りがちである。

台湾に赴任してから今でもいつも思うのであるが、台湾の事務所はとっても明るい雰囲気。
ミラーシステムによって、自分にパワーが伝染したのか、台湾に来てからは明るく積極的になった。
それまでは「自分自身の気の持ちようだ」と強引に思っていたが、やっぱり環境は非常に重要なのだ。
 

P169
学ぶことは、つらいことばかりではなく、本来この上なく楽しいことである。そして、学ぶ楽しみは、
他から与えられるのではなく、自ら積極的に取り組んではじめてわかるのである。

そのとおりです。
 

P176
誰もが天才になれるわけではないが、ときには突飛なふるまいをしてみるのは、脳にとってよい
はずである。種から芽が出るように、これまでの自分のイメージとギャップがあることを
やってみる。これは、最高の「脳を鍛える」方法の一つではないか。

 

P216
人生を楽しむことが、自己実現への一番の近道である。

結局、これなんですよね。これがわかると人生前向きで積極的になります。
 

P223
物質的な富もある程度は必要だが、人生は結局、どれだけのことを体験できたかが全てなのだ。

よく「時間は平等に与えられている」と言われるが、科学技術が発達していなかった数百年前の
時代を生きた人たちと比べたら、私が経験していることはとても幅が広いだろうし、その
イペント自体もはるかに多いだろう。例えば、旅行に行ったり、異なる文化の人たちに出会うことと
いうのは特に昔の人はなかなかできないことだったろうから。
人と比べても仕方がないのだけれど、自分の考え方次第で人生を10倍にも100倍にも濃厚なものに
できるのだから、いろいろなところに行って、いろいろな人といろいろな話をして、いろいろな本を
読んであたらしい考え方に触れ、自分の考えをダイナミックに形成していくことは最優先事項である。