三浦つとむ「新しいものの見方考え方」季節社刊(1960年12月)★★★☆☆

新しいものの見方考え方 (三浦つとむ文庫)

新しいものの見方考え方 (三浦つとむ文庫)


私を弁証法の壮大な世界へ引き入れてくれた三浦つとむさん。
 
その三浦さんが高校生にもわかるような簡単な言葉で、弁証法的にものごとを捉え考える
ためのコツを示してくれている。
 
三浦さんが伝えようとしていたこと、それは弁証法の素晴らしさであるが、それを
ロジカルシンキングである、と捉えられてしまうと困ってしまう。
 
世間一般で出回っているロジカルシンキングとは、論理的思考そのものの全般を示す概念的な
ものであるから、弁証法とはロジカルシンキングであると言えるのだけれども、弁証法は
ロジカルシンキングの核をなす方法論であると私は考えている。
 
しかしながら一方で、現在出版されているロジカルシンキングのテキストには、弁証法に
関する記述が少なく、その説明も大いに不足しているのが実情である。
 
なぜ不足しているのか。
弁証法と言われる方法論を体系化し、それを実践して社会を包括的に分析したうえで
論理的に変革しようとしたのがマルクスであったからである。
 
現代においてマルクス主義と言えばどうしても社会主義が前面に出てしまうので、
人によっては敬遠し、また新たに学ぼうとする人が少ない。
そのような中、弁証法は古い倉庫の奥底にしまわれてしまい、埃をかぶっているのである。
 
今回この本を読んで、私がいつか執筆したいと思っていることに近い内容・スタイルで
あることに気づいた。
やはり、自分が言いたいことは弁証法そのものなのかもしれないと思った。
 
さて、この本のなかでいかにも三浦さん的(弁証法的)だと思える箇所をいくつかあげる。
 

(P.31)
他人が私たちをだますだけでなく、他人の正しい考えをまちがって受けとったり、自分でまちがった考えをつくりあげたりして、自分で自分をだますことも私たちはしばしば経験している。
(中略)人間がまちがった考えを持つのは、人間の認識はどこまでいっても不完全であるという、認識というものの根本的な性格に根ざしているからである。

このように指摘されると、人間というものがいかに一面的に考えやすい生き物であるかが
見てとれる。
 
我々はよく、ひとからだまされないように注意しなければならない、とは思っているけれども、
他人の考えを受け止める自分自身がまちがった考えをして、自分自身をだますことに
気をつけなければならない、ということはあまり真剣に考えていない。
 
他方、完全な認識などあり得ないというのも真実であり、人間はいつも限定された情報の
中で判断しているのであって、すべての情報を把握してから判断しているのではないという
ことも忘れがちである。
 
両面、多面で考えること、対立物は相互浸透するということ、あれかこれかではなく
あれもこれもであること。
こういった弁証法の基本を一つひとつ理解し、無数にある社会現象に照らし合わせて
学んでいくことで、それが自分を大きく成長させる武器となるのである。
 

(P.38)
見たところ不合理のように思われるものも、それは一面を見てそこだけで判断するからで、これを全面的に見るならば合理的なことが分かる。

(P.61)
人間の社会のありかたに不合理なところがあるならば、それは結局人間が知らず知らずにつくり出した不合理であるから、その不合理のよって立つ条件をしっかりとつかまえて、その条件をとり去るなら、不合理も解消するはずである。人間のつくり出したものが、人間の手で処理できない理由はない。

先述の認識に関する考察と関連する箇所。
 
世の中で発生し目に見えているあらゆる現象は、必ず合理的である。
社会において、人間の目から見たときに不合理と感じられることについては、人間がいつのまにか
生み出してしまったもの。
それを不合理と感じるのは、その原因、背景、メカニズムを正確に(あるいはほぼ正確に)
認識できていないからなのである。
 
よって、複雑に絡み合っている物事を一つひとつ紐解いて、分解して考察すれば、
必ず合理的な理由が明らかになる。
それに対して適切な処置を行えばよいのである。
 
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