大江健三郎「われらの時代」新潮文庫(1963年)★★★☆☆

われらの時代 (新潮文庫)

われらの時代 (新潮文庫)


 大江健三郎の作品を初めて読んだのは「個人的な体験」であった。なぜその本を手に取ったのか今ではまったく覚えていない。もしかしたらノーベル文学賞受賞がきかっけだったかもしれない。いずれにしても、もう15年以上前のことだ。その「個人的な体験」からは強烈な衝撃を受けた。その生々しく質量に満ちた作品の勢いに。今でもあのときの衝撃を、頭ではなく体に思い起こすことができる。恐らく、この作品によって自分の中の何かがぐらりと揺らぎ変化したはずである。それが何かは永遠に意識化できないと可能性が高いが。
 
 あの時「個人的な体験」を手に取っていないければ、恐らくこの「われらの時代」を読むこともなかったであろう。ロサンゼルスの古本屋でたまたま手に取ったこの本も、あの「個人的な体験」と同質の、なにかとてつもないものに満ち溢れた作品であった。
 
 これほどまでに血なまぐさい作品を、なぜ大江健三郎は23歳のときに書きはじめたのか。この作品を読みながら、その疑問が常に頭を離れなかった。文庫版出版にあたって大江健三郎自身が27歳の時に書いた「≪われらの時代≫とぼく自身」の中でその理由を垣間見ることができるので少し引用してみよう。(「われらの時代」巻末に掲載)
 

ぼくは読者を荒あらしく刺激し、憤らせ、眼ざめさせ、揺さぶりたてたいのである。そしてこの平穏な日常生活のなかで生きる人間の奥底の異常へとみちびきたいと思う。(p.280)

ぼくが小説を書きながら労働の歌を歌いたいとすれば、それはオーデンのこんな詩だ、深瀬基寛訳で引用しよう。
 危険の感覚は失せてはならない
 道はたしかに短い、また険しい
 ここから見るとだらだら坂みたいだが
すなわち、ぼく自身、小説を書きながら、危険の感覚をもっていたいし、読者にも危険の感覚を喚起したいというわけだ。(同)

 現代の生活の中で、人は人として生きていないのではないか。人が奮い立つとき、限界を超えて何かを行おうとするとき、人間は人間らしさを取り戻すのではないか。危険なこと、極度な状況、異常な事態。その中に人間の本質が見出せることがあり、逆説的だが人はそれによって救われることがある。現在、すなわち2012年から見ると彼がこの作品を書きはじめた1958年というのは50年以上の開きがあるが、大江健三郎の人間に対する考察は少しも色褪せることがない。
 
 思えば自分を揺さぶりたいという願望、それは常に自分を覆っている。そしてその願望が時折自分に強く迫ってくる。2012年は恐らく、この願望が自分人生を激しく突き動かす年となるだろう。
 
 この作品に、今、出会えたということ。本と出会うタイミングというのは、いつも奇妙だ。

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