村上春樹「走ることについて語るときに僕の語ること」文春文庫(2007年10月)★★★☆☆

走ることについて語るときに僕の語ること (文春文庫)

走ることについて語るときに僕の語ること (文春文庫)

(P.36)
僕にとって――あるいはほかの誰にとってもおそらくそうなのだろうが――年を取るのはこれが生まれて初めての経験だし、そこで味わっている感情もやはり初めて味わう感情なのだ。

(P.39)
誰かに故のない(と少なくとも僕には思える)非難を受けたとき、あるいは当然受け入れてもらえると期待していた誰かに受け入れてもらえなかったようなとき、僕はいつもより少しだけ長い距離を走ることにしている。いつもより長い距離を走ることによって、そのぶん自分を肉体的に消耗させる。そして自分が能力に限りのある、弱い人間だということをあらためて認識する。いちばん底の部分でフィジカルに認識する。

(P.41)
意味についてあとでまたあらためて考えればいい(あとでまたあらためて考えることは、僕の特技のひとつであり、その技術は年を追って洗練されていく)。

(P.59)
自分が興味を持つ領域のものごとを、自分に合ったペースで、自分の好きな方法で追求していくと、知識や技術がきわめて効率よく見につくのだということがわかった。

(P.79)
身体というのはきわめて実務的なシステムなのだ。時間をかけて断続的に、具体的に苦痛を与えることによって、身体は初めてそのメッセージを認識し理解する。

(P.99)
正気を失った人間の抱く幻想ほど美しいものは、現実世界のどこにも存在しない。

(P.103)
そう、ある種のプロセスは何をもってしても変更を受け付けない、僕はそう思う。そしてそのプロセスとどうしても共存しなくてはならないとしたら、僕らにできるのは、執拗な反復によって自分を変更させ(あるいは歪ませ)、そのプロセスを自らの人格の一部として取りこんでいくことだけだ。

(P.126)
人の精神は、肉体の特性に左右されるということなのだろうか?あるいは逆に精神の特性が、肉体の成り立ちに作用するということなのだろうか?それとも精神と肉体はお互いに密接に影響し、作用し合っているものなのだろうか?

(P.174)
意識なんてそんなにたいしたものではないのだ。そう思った。

(P.181)
僕らはたぶんそれをただそのままそっくり、わけも経緯もなく受け入れてしまうしかないのだ、と。税金や、潮の干満や、ジョン・レノンの死や、ワールドカップの誤審と同じように。

(P.251)
苦しいからこそ、その苦しさを通過していくことをあえて求めるからこそ、自分が生きているというたしかな実感を、少なくともその一端を、僕らはその過程に見いだすことができるのだ。生きることのクオリティーは、成績や順位といった固定的なものにではなく、行為そのものの中に流動的に内包されているのだという認識に(うまくいけばということだが)たどり着くこともできる。

(P.251)
効果があろうがなかろうが、かっこよかろうがみっともなかろうが、結局のところ、僕らにとってもっとも大事なものごとは、ほとんどの場合、目には見えない(しかし心では感じられる)何かなのだ。そして本当に価値のあるものごとは往々にして、効率の悪い営為を通してしか獲得できないものなのだ。たとえむなしい行為であったとしても、それは決して愚かしい行為ではないはずだ。僕はそう考える。実感として、そして経験則として。

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