内田樹「日本辺境論」新潮新書(2009年11月)★★★★★

日本辺境論 (新潮新書)

日本辺境論 (新潮新書)


日本人とは何かということを明瞭に示した、とんでもなく衝撃的な本。
 
全体知として諸学問をアウフヘーベンしてきた度合いが半端ではない。
これほどシビアなことをわかりやすく言語化してしまうからさらにすごい。
 
一生かけてこの本が指し示すことを考えていきたいと思う。
(老後の楽しみがまた増えた)
 

(P.175)
私の敵は私である。私に仇をなすのは私である。私を滅ぼすのは私である。(中略)無傷の、完璧な状態にある私を「標準的な私」と措定し、私がそうではないこと(つまり「今あるような私」であること)を「敵による否定的な干渉」の結果として説明するような因果形式、それが「敵」を作り出すロジックです。「敵」はこのロジックから生み出される。「敵」とは実体ではなく、「原因」で「結果」を説明しようとするこのロジックそのもののことである、と言ってもよいかと思います。(中略)純粋状態の、ベストコンディションの「私」がもともと存在していて、それが「敵」の侵入や関与や妨害によって機能不全に陥っている。それゆえ、敵を特定し、排除しさえすれば原初の清浄と健全さが回復される。そう考える人の世界は「敵」で満たされます。そういう人にとっては、やがてすれ違う人も、触れるものも、吸う空気も、食べるものも、すべてが潜在的な「敵」になる。「敵」の介入のせいで、「私」の可動域が制限され、活動の選択肢が限定された状態として「私」の現状を説明する人は、つねに「敵」に囲まれています。そして、そのとき「私」にとっての理想状態とは、この世界に「私」以外に誰もいないこと。絶対的孤独のうちに引きこもることを意味する。(中略)それに対して、「無限の選択肢」などというものは仮想的なものにすぎず、とりあえず目の前にある限定された選択肢、制約された可動域こそが現実のすべてであり、それと折り合ってゆく以外に生きる道はないと考えるのが「敵を作らない」ということです。そう思うことで、時間意識が変成する。

この「敵」を作り出すロジックは、全世界で社会問題となりつつある「モラルハラスメント」の
加害者において(多くは無意識的に)構築されているものではないかと思う。
また、昨日の勉強会で「敵を作らない」ことの重要性を聞いたばかりであったから、まさに
この話と見事にリンクし理解が深まった。
すなわち、「敵」をつくらないというのは、「大人の態度」そのものなのだろう。
 

(P.184)
私たちが時間意識を変成しようとすると、いちばん正統的なのは、このように時間を細かく割ることで、主観的な時間の流れをコントロールすることです。

この話はシンプルでわかりやすい。
また、私自身が活用している時間のコントロール法である。
 

(P.187)
「機」というのは時間の先後、遅速という二項図式そのものを揚棄する時間のとらえ方です。どちらが先手でどちらが後手か、どちらが能動者でどちらが受動者か、どちらが創造者でどちらが祖述者か、そういったすべての二項対立を「機」は消してしまう。後即先、受動即能動、祖述即創造。(中略)つねに場を主宰し、つねに先手をとり、つねに主体であることを望む人たち(「中華人」たち)は「機」の思想とはついに無縁です。彼らにはそのような思想を発達させなければならない理由がないからです。

本書に手にとってよかったことのひとつは、この「機」という思想に出会えたこと。
「機」についてはこれから個人的に研究したいと思います。
 

(P.197)
「学ぶ力」とは、「先駆的に知る力」のことです。自分にとってそれが死活的に重要であることをいかなる論拠によっても証明できないにもかかわらず確信できる力のことです。ですから、もし「いいこと」の一覧表を示さなければ学ぶ気が起こらない、報酬の確証が与えられなければ学ぶ気が起こらないという子どもがいたら、その子どもにおいてはこの「先駆的に知る力」は衰微していることになります。私たちの時代に至って、日本人の「学ぶ力」が劣化し続けているのは、「先駆的に知る力」を開発することの重要性を私たちが久しく閑却したからです。(中略)この力は資源の乏しい環境の中で生き延びるために不可欠の能力だったのです。(中略)「学ぶ」力こそは日本の最大の国力でした。ほとんどそれだけが私たちの国を支えてきた。ですから、「学ぶ」力を失った日本人には未来が無いと私は思います。現代日本の国民的危機は「学ぶ」力の喪失、つまり辺境の伝統の喪失なのだと私は考えています。

内田さんらしい指摘。
指摘が鋭すぎて、まったく否定できず。
日本の行く末が見えてしまいました。
 
なお、このような観点から物事を語れる人は非常に少ない。
この種のことを言語化できる大人になりたいものである。
 

(P.218)
(日本では)自分の方が立場が上であるということを相手にまず認めさせさえすれば、メッセージの真偽や当否はもう問われない。「私はつねに正しい政策判断をすることのできる人間であり、あなたはそうではない」という立場の差を構築することが、政策そのものの吟味よりも優先する。「何が正しいのか」という問いよりも、「正しいことを言いそうな人間は誰か」という問いの方が優先する。そして、「正しいことを言いそうな人間」とそうでない人間の違いはどうやって見分けるのかについては客観的基準がない。だから、結局は「不自然なほどに態度の大きい人間」の言うことが傾聴される。

これも納得。
本書では、このような文化的背景を生んだ要因のひとつとして「日本語」という特殊な
言語をあげており、これについても勉強になった。
 
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