鈴木大拙「禅とは何か」角川ソフィア文庫(1928年)★★★★☆

新版 禅とは何か (角川ソフィア文庫)

新版 禅とは何か (角川ソフィア文庫)

(P.14)
答は問の中にある。これは禅宗の常套語であるが、疑いの裏には信があるというのである。叩けよ、しからば開かれん、ということはこの辺の消息を如実に伝えているものである。尋ねるということの半面にはすでに分明であるということを意味している。であるからこの辺のところから見れば、不満のあるところ、すでに満足がある、否、満足の可能性、満足の予期とも言い得られるものがあるのである。(中略)苦しいということに気がついたときには、すでに前の論法を持って行けば、その苦しみの中に楽しみが芽を出しているのである。苦は畢竟して脱せられ得るのである。

(P.16)
孔子論語の中に、「十有五にして学に志す」という言葉があるが、これは孔子が十五歳にして初めてこの「ある」と「ありたし」との両者の矛盾に気がついたのであって、そして、それから漸次に深い内省的経験の生活にはいられたことを意味しているのである。現今、心理学者の説によると男は平均十五歳くらい、女は十三歳くらいでこの精神的な動揺を感じ始めると言われている。(中略)そしてこのころからして、子供の心が内面的に分裂を始めてくる。(中略)自己の分裂する時代、一つは事実の我であり、一つは自己の中において価値を求める価値の我である。この二つのものが矛盾するところにわれわれの苦しみは存するのである。

(P.28)
われわれが人の言うことを聞いて信ずるということは、その言うことが本当であり、論理的であるということだけで、必ずしもそれを信ずるということにはならないのである。まず言うことが本当ではなくてはならぬが、その外にその言っているところの者の人格が、その真実の中に加わって来ることが必要である。論理や事実の上に、人格が加わるというと、われわれはその説以外に一個の圧迫を感じてくる。つまり、信じなければならぬというような心持をさせられてくる。(中略)人格というものは真理以上の一つの力をもっている。

(P.38)
仏教はあくまでも生きて進展増大するものであると、こう見てよいのである。生きたものと見なければ、宗教は死んだものになってしまう。「仏教の流れからわれわれは養分をとってそれによってわれわれを栄養し、そしてその成果をさらにその流れに注ぎ込んで行く」私はこういう風にどうしても考えなければならぬと思っている。

(P.48)
口に出すということは社会というものがあるからである。自分一人であったならば、言語はできない、社会があるから言語ができた、それがために思索ということも可能になったのである。(中略)ただ物を考えただけでは駄目で、これを何かの形式で表現発表しなければならぬ。(中略)何かのものに自分の思いを移してみるということ、自然とその対象が自分の友だちになる。社会性を肯定しないと人間はいけない。(中略)自分というものを、何か他のものによせぬといけない。(中略)向うのものと一つになる、そのものの心を自分が読む、自分の心を向こうに読んでもらう、社会意識というのは、これである。(中略)馬鹿にはまだ自分を表現するだけの力のもち合わせがないというだけのことである。つまり、表現の機会がなかったのである。大馬鹿と天才とはこれだけの差である。どちらにも同じものが備わっている。(中略)だから表現というものをしなければならぬ。知るというだけに止めてはならぬ。

(P.74)
自分というものがあるのは、どういう訳であるのかというと、自分でない者がある、自分以外の者があるので、自分というものができ上がるのだ。(中略)自分のためにするということは、決してそれだけでできることでなくして、人のためにするということがあって、初めて可能である。

(P.90)
超然として一遍、出なければならぬ。圏内にあってはわからない。けれども圏の外に出るということだけではいけない、外に出ると同時に内にはいってみないとわからぬ。(中略)そのものを、そのものと見ることができる人は、すでにそのものから超越した人である。

(P.119)
客観と主観、われわれが心理学でも、論理学でも、二つを考えているが、その主観と見ているところの、一方の根源を尽くすというと、それがやがて、客観と見ておったところの、他方にずっと抜けて出る。ちょうど、トンネルの入口のようなものである。入口と出口を見ているとこのように見える。ところが、それを一方から底へ底へ、奥へ奥へと突き進んで行くと、向こうと、こちらと、畢竟して同じところに抜け出るという道理ではないかと思う。そうすると、ここにおいて、自分と天地というものが一になったという事実が生ずる。

(P.131)
苦しみというようなことも、不平があるから苦しいという心持が出るのである、――不平がなかったら苦しみも何もないはずだ。――あまり完全にできていて、何もかも都合がよいと、不平がなくなる。苦しみもなくなるが、その結果、人間も亡びてしまうものである。われわれもその環境との関係が、すべて完全に行っていると、生きているのか死んでいるのかわからないということになる。生きているというときには何か苦しみというものがなければならぬものと思う。

(P.222)
まず今日のところでは、すべて生命が生命を生んでいるのであって、古いものから、新しいものができて来たので、まったく新たなものから、生命を作り出すということはしない。古いものから新たなるものができて来たとなると、本当の新しいものはないということになる。(中略)何でも皆古いものであり、また新しいものである。(中略)われわれは刻々に創造して行くのだ。神は天地を創ったというが、その天地が今まであるものとすれば、ずいぶん古いものである。が、その実はわれわれがおのおの神となって、この古い天地なるにもかかわらず、それを日々に創って行くのである。われわれが実際の天地の創造主となるのである。

 
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