鷲田清一「じぶん・この不思議な存在」講談社現代新書(1996年7月)★★★☆☆

じぶん・この不思議な存在 (講談社現代新書「ジュネス」)

じぶん・この不思議な存在 (講談社現代新書「ジュネス」)


とても興味深い内容だけれども、今の私にとっては早すぎるか遅すぎる本。
またしばらく後で手にとるかも。

  • 各人にとってはじぶんじしんがもっとも遠いものである。(ドイツの格言、ニーチェ引用)
  • 人は、決して人そのものを愛するのではなく、その性質だけを愛しているのである。(パスカル「パンセ」)
  • 自己のアイデンティティとは、自分が何者であるかを、自己に語って聞かせるストーリーである。(ロナルド・D・レイン)
  • 「じぶんらしさ」というものは、イメージとして所有すべきものではなく、じぶん以外のなにかあるものを求めるプロセスのなかでかろうじて後からついてくるものである。
  • じぶんが何に対してじぶんであるかという、その相手方がいつもじぶんを計る尺度である。(キルケゴール
  • 現在のわたしたちは、プライヴァシーは保護されるべきである充溢した固有の生活のように受けとめている。が、ハンナ・アーレントも指摘しているように、私的な生活とはかつて「真に人間的な生活に不可欠な物が<奪われている>deprivedということ」つまり「他者によって見られ聞かれることから生じるリアリティを奪われていること、物の共通世界の介在によって他人と結びつき分離されていることから生じる他者との<客観的>関係を奪われていること、さらに、生命そのものよりも永続的なものを達成する可能性を奪われていること」を意味していた。彼女のいう決定的なことばによれば、「私生活に欠けているのは他人である」。とすれば、他人から切り離されたところでこそ、自分に固有なもの、じぶんの私的な領域はあるというわたしたちの考えこそ、求めているものからもっとも遠い幻想だった可能性がある。皮肉なことだが、昨今みられるような「わたしとはだれか?」という問いの(不在ではなく)エスカレーションが、わたしたちの不安をあおってきたということも大いにありうることなのである。
  • <わたし>の宣言にはわたしの死が構造的に必然的である。(デリタ)

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