【2011年2月〜3月】考える・感じるツイートまとめ(記録用)
次第に非日常が日常となり、挑戦が安定となって、刺激が惰性へと変わる。前に進んでも戻り、停滞してもまた動き出す。オクターブの中に囚われ彷徨う音階の如く、僕たちは揺れ動いている。後戻りはできない。ただ先へと進む。
2011-02-11 17:31:28 via web
地を這う日々があればこそ、羽を得、空に羽ばたける日々が訪れる。その来たるべき循環を常に忘れず、認識の時間軸を柔軟に可変すること。人は、時間認識の可変性を強化することで悲観的にも楽観的にもなれる。
2011-02-15 13:07:49 via web
あの日に戻ることを期待するのではなく、あの日以上の未来を実現すべく上を向いて今日を歩もう。人は過去を回想しなつかしむ時、現実から目をそむけ消極的になる傾向がある。
2011-02-15 13:11:33 via web
旅に出るリスクは十分に承知した上で、それでも先に進むのだ。自分からはるかに離れることが、自分に最も近づく最良の方法であるから。
2011-02-15 13:14:08 via web
自分が望んだ自己の破壊が達成されつつある。それを悲しみ、そして同時に喜んでいる。その先に広がる新しい未来。
2011-02-15 13:15:29 via web
他人のことを的確に把握し描写できるときほど、自分のことがよく見えていない。
2011-02-15 13:17:27 via web
人は、理想の状態に近づけば近づくほど、理想とは程遠いところに追いやられる。
2011-02-15 13:18:38 via web
無意識の自我をいかに表層化させ、それを意識的に認識することができるかが、自分が自分としてあることに直結する能力である。
2011-02-15 13:22:33 via web
物ではなく経験にお金を使うようにすることは、自分の人生を自分で歩むためのひとつの有効な手段である。
2011-02-15 14:20:49 via web
人生とは、後戻りできない螺旋階段をのぼるプロセスである。
2011-02-27 03:46:26 via web
過去は、客観的には確定し硬直するが、主観的には揺れ動き編集され続ける。この乖離の中で、人は過去について考え続け、感じ続ける。
2011-02-27 03:53:54 via web
ミャンマーのカチン族の言語には、英語のTimeに相当する単一の語が無い。伝統的なアフリカ人の時間意識は未来を事実上持たない。北アメリカのホピ族の言語においては、夏や朝を表す言葉はすべて名詞ではなく我々の副詞に近く、主語にも目的語にもならない。(真木悠介「時間の比較社会学」)
2011-03-02 14:52:32 via web
原始人にとって意味があるのは、繰り返すもの、可逆的なもの、恒常的なものであり、一回的なもの、不可逆的なもの、移りゆくものはその素材にすぎない。近代人は逆に、繰り返すもの、可逆的なものの方が背景となる枠組みをなして、一回的なもの、不可逆的なものとしての人生と歴史が展開する。(同)
2011-03-02 14:55:47 via web
人生とは、同時に数多くの螺旋階段をのぼっていくことである。あらゆるものは循環しつつ、度合いは別としても一方的に上昇していく。それらの階段は、横から見たときの一段一段の高さや、上から見たときの円周がそれぞれ異なる。それに加え、その階段を歩むスピードも時によってまちまちである。
2011-03-27 12:49:45 via web
そしてこれらの螺旋階段は、時に細かく分裂し、時に統合されながらダイナミックに進行する。人が生まれたときにたったひとつだった螺旋階段は、多様化され複雑化していくけれども、それはある時から次第に集束していき、そして人生が終わる瞬間にすべてがひとつに統合されるのだ。
2011-03-27 12:53:32 via web
人は様々な時のリズムとどこまでも続くオクターブの循環の中で泳ぎ、翻弄される。以前自分が考えたことのある考えに戻る、いわば既視感のようなものを何度も味わいながら、それでも上にのぼっているという確信。人は、この根源的な自己満足に支えられているから、一度絶望しても立ち上がり前に進める。
2011-03-27 12:58:40 via web
当然この世界には人ひとりの人生という時間枠を超えた様々な螺旋階段が存在する。数百年に一度という災害とその復興、という繰り返しも同一である。現代を生きる私たちは持てるすべての叡智を集結し復興を果たす。数百年後にまた大規模災害が発生したとき、少しでも高い周波数の音を奏でられるように。
2011-03-27 13:06:36 via web
真の意味で「考える」ためには、「感じる」力を総動員しなければならない。
2011-03-27 13:13:49 via web
イメージを完全に言語化することは本来的に不可能だけれども、できる限りで言語化しておくことは、自分がそのイメージを思い出すための有効なツールになり得る。
2011-03-27 13:19:30 via web
相手に伝わったと自分が考えていることが、願望的錯覚であるということを認識できるのが大人である。
2011-03-27 13:22:23 via web
そもそも、ある物事を完全に認識するということも不可能である。私たちができるのは、完全を目指して認識しようとすること、認識に完全はないということを常に覚えていること、自分の能力をフル活用して多様な視点から物事を考察すること、そして自分の認識の不完全さを把握する努力をすること。
2011-03-27 13:30:30 via web