加賀野井秀一「メルロ=ポンティ 触発する思想」白水社(2009年4月)★★★☆☆

メルロ=ポンティ 触発する思想 (哲学の現代を読む)

メルロ=ポンティ 触発する思想 (哲学の現代を読む)


メルロ=ポンティ哲学の入門として十分な内容であることに加え、著者のメルロ=ポンティへの想いと長年の研究の成果、そして文学作品のようなしなやかで心弾む表現がこれでもかというほど滲み出ており読んでいて楽しい。もちろん、哲学的ヒントもたくさんあった。

(P.13)
哲学者の哲学者たるゆえんは、ひとえに、この生活をどこまで注意深く凝視められるかというところにかかっている。
(P.14)
哲学とは、世界を見ることを学び直すことである。

反対に言えば、単に形而上学的にとらえたり、世界を超越したり、主体から離れて俯瞰したりすることが哲学ではないということ。

(P.19)
人は常に、何かを、何かについて、何かに従って、何かによって、何かに対して、何かに逆らって考えるのである。考えるという行為さえも、存在の推力のなかに取り込まれているのだ。私は同じことを同じように数瞬のあいだ考えることはできない。「シーニュ
(P.18-19)
人間は、もちろん哲学者を含めて、徹頭徹尾この世界の内に取り込まれており、世界の只中でこそ己を知るのである。…デカルトの「思うわれ」はどこにいるのか。カントの「統覚(シノプシス)を行使する主観」はどうなのか。彼らはまるで、世界の外にでも位置するかのように、森羅万象を高みから俯瞰しているのではないか。これこそ、メルロの名づける「上空飛行の思想」である。
だが、私たちには、「世俗的生活」をまぬがれることができないのと同じく、世界の外に立つこともできはしない。私たちは故知らず、ある時代に、ある場所におり、ある身体をもって、ある事象に関わっている。特定の文化の中で、特定の言語を用い、特定の伝統を背負って、特定の人間関係に巻き込まれているのである。…どれほど確固たる出発点を求めようとしても、私たちは、まず、あらゆるものを身に被っているところから出発しなければならず、徐々にそれらを意識化しながら、拒否したり受け入れたりするより他に手はないのだ。「タブラ・ラサ(白紙)」の思想も、「エクス・ニヒロ(無から)」の思想もありはしないし、「方法的懐疑」もまた、ものごころついてから遅まきに始まるしかないだろう。

まずは自らが依拠するところを認識し、そこから決して離れることなくどこまで遠くを、どこまで深くを見ることができるか。それはあらゆるパースペクティブ性が求められる行為。自分という場所から離れず、どこまで大きな螺旋的な楕円を描いてゆけるか。

(P.51)
ベルクソン:概念的思考はどんなに抽象的であっても、出発点はいつも知覚の中にある。

感じることと考えることの関係性。目から鱗。

(P.83)
主観は対象によって一義的には決定されていない。けれども、主観が対象によって制約されていることもまた事実。
(P.101)
この二元論は実体の二元論ではない、言いかえれば、心と身体の概念は相対化されなくてはならない。つまり、交互に作用し合う化学的構成要素の塊としての身体が存在するし、生物と生物学的環境との弁証法としての身体があるし、社会的主体と集団との弁証法としての身体があるのであり、さらには、われわれの習慣でさえも、すべて各瞬間の私に感知されるとは限らない身体なのである。これら諸段階の一つ一つは、前段階のものに対しては<心>であり、次の段階のものに対しては<身体>である。身体一般とは、すでに巡られた道程の全体、すでに形成された能力の全体、つねにより高級な形態化の行われるべき<既得の弁証法的地盤>であり、そして心とは、そのとき確立される意味のことである。「行動の構造」

「行動の構造」におけるメルロ=ポンティ流のゲシュタルト概念、および心と身体の関係性についての記述。

前半は同感。後半は心身が合わさった<自分全体>が弁証法的に既得されたすべてであると個人的には思う。まずそこをクリアにしてから、パースペクティブ的な議論として心や身体それぞれの存在を個別に思考した方が良い。

(P.122)
視野の周辺に在る領域は容易に記述しがたいものだが、しかし、それが暗黒でも灰色でもないことは確かである。つまり、そこには未決定の視像、何だかわからぬものの視像、というものがあるのであって、極端に言えば、私の背後に在るものでも視覚的に現前していないわけではないのである。「知覚の現象学
(P.120-122)
知覚とは、「図」と「地」との双面をともなう行為なのであって、「図」のみに直接対応するものではあり得ない。「図」が「図」として存在するのは「地」あればこそ。「図」も、その「図」の「意味」も、ひいてはそれらがこぞって指し示す「事物」の存在も、すべては「地」という他なるものを経由して初めて到達されることになるわけだ。…どんな事象も「ある側面から」「ある遠近法において」「漸次的に」知覚されるしかなく、そのつど与えられる事象の側面が「射映」と呼ばれる。…「見る」とは、そもそも、どこか限定された場所から、これまた限定された側面を見るということではないのか。…重要なのは、個々の射映が、「見え」や「聞こえ」にのみ尽きることのない豊穣さを持っているということなのだ。…視野は、そして一般的に視覚野は、背後にも無限の彼方にも、さらには過去にも未来にも開かれているのであって、その中心部の「今ここ」から周辺へと、漸次的に曖昧になっていくものだと考えられる。

物事の捉え方、言い換えれば意識と物の関わり方、つまりはパースペクティブ性、時間性、漸次性がここにすっきりまとまっている。いいねぇ。


(編集中)

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