「スピノザの世界」に関するメモと考察3

6. 人間

人間とは、神あるいは自然の属性が一定の仕方で表現される様態である。(P.106)

対象が人間だろうがイスだろうが猫だろうが、すべては神あるいは自然のある様態だということである。この考え方は私自身が考えてきた考え方とほぼ同一。だからすごくしっくりくる。
スピノザ哲学を少し逸脱してしまうけれども、こう考えてはどうだろう。自分としていまここに存在する身体・思考は、自分以外の何かによって作られている。身体については食料・水・空気などから。思考については生まれてから今までのありとあらゆる外部からもたらされた経験から。さらに、人が死を迎えた後、その体は焼却されるか土に埋められるか海に流されるかして、長い目で見れば植物が育つ養分となり、土を構成する要素となり、海や空気を構成する一部となる。そして、また別の様態となる。
以上より、今、ここにいる一人の人間というのは、別の様態になりえた可能性を無限に持つ、たまたまこのような様態として現れた姿なのである。こう考えれば、スピノザのこの考えは容易に理解できるであろう。

デカルトが残した二つの難問。
「エチカ」第2部「精神の本性および起源について」は、この二つの問題の答えになっている。(P.107)

A. 認識論
観念は、その表現が対象事物と一致するとき真なる観念だと言えるが、デカルトの言う観念はあくまで「私の精神」の思考様態なので、主観的な思いがどうして思考の外にあるものと一致できるのかという問題を残してしまう。

B. 心脳問題
人間は精神と身体が一つになってできているが、思考(何かの考えになっていること)と延長(物質的広がりになっていること)は共通点がないので、精神と身体が一つになっているという状態を考えようとしてもできない。

A'. 認識論に対するスピノザの(意図せざる?)回答

スピノザの説明はいたってシンプル。同じものが、対象とその観念と両方の位置で表現されていると考えれば良い。言い換えると、同じ事物が、真なる観念の中に対象化されてあるあり方と、事物自身の属性のもとで表現されるあり方、その両方のあり方をしていると考える。(P.109)

例えば台風という様態。これはひとつの個体である。台風をその台風として存在させ・作用させている無数の物理的な原因があるのは間違いない。われわれは到底その原因をすべてたどることはできないが、自然の方ではすべてたどりきって現に台風を存在させている。そして原因があるということは、なぜその台風が存在しているのか説明がある、ということである。たとえわれわれには無理でも、自然の方ではなぜその台風がそんなふうに存在しているかの説明が尽くされていて、台風の存在が現に結論されている。これが現実に存在する台風についての「真なる観念」である。自然の中に台風の真なる観念が生み出され、猛威を振るう台風と「同じものの異なった表現」になっている。(P.111)

観念の対象となっている事物は、観念が思考の属性から出てくるのと同一の仕方・同一の必然性をもって、それ自身の属性から出てき、かつ結論される。(P.111、「エチカ」定理6の系)

観念の秩序および連結は事物の秩序および連結と同一である。(P.112、「エチカ」定理7)

認識論の答えとしては少し肩すかしをくらった感があるが、一応回答となっていると言っていいだろう。しかしもちろんこれは完全にしっくりくるものではない。
一方で、このスピノザの思考は認識論すべてを解決するものでないにしろ、解決の糸口となる重要な考えだとも思う。

B'. 心脳問題に対するスピノザの(意図せざる?)回答

人間精神は人間身体の観念あるいは認識にほかならない。(P.115、「エチカ」定理19の証明)

大気中のさまざまな粒子が局所において協同し、すべてが同時に一つの結果の原因のようにふるまい始めるとき、そこに台風がある。同じように、そこに私の身体がある。一般に、下位レベルでの物質諸部分が協同してある種の自律的なパターンを局所に実現しているとき、その上に上位の個物ないし個体特製がスーパービーン(併発)している。さらにそれはその下位にも同じように当てはまる。こうしてスピノザは、物質延長の全面が無数の階層を持った無限に多くのいわば個体特性で覆われていると考える。(P.116-117)

一般に思考の世界では、事物の異なる概念Qを理解し・結論しているのは、その事物の近接原因の思考Pである、ということになる。
P→Q(思考Pが概念Qを理解し・結論している)
例:P「半円が回転」→Q「半円が回転→球」
スピノザ的に言うと、観念Pになっている(変状している)神が概念Qを理解し・その概念Qの対象をそれとして知覚している、ということになる。ならば「身体の観念」が精神のように何かを理解したり知覚したりしても不思議ではない。(P.117-119)

われわれが何かを知覚しているということは、無限知性の細部で生じているそうした局所的な知覚の一部である。何を知覚しているかというと、それは「身体の変状」であろう、とスピノザは言う。われわれの身体Aがほかの物体Bから刺激されて変状aを自らのうちに生じる。身体Aの観念が自分の身体に生じている状態aを知覚していることになる。それがわれわれの精神である。(P.121-122)

この帰結として、人間は精神と身体とから成りそして人間身体はわれわれがそれを感じるとおりに存在する、ということになる。(P.123、「エチカ」定理13の系)

これら説明の後に「心身合一(心脳問題)という問題が解決されてしまっている」と著者はいう。うむむむむ。これは困った。この本の中でここだけは理解できない。まあ、完全に理解できないわけではなくて、40%くらいは理解できているのだけれど、どうも腑に落ちない。よってここはちょっと保留。どなたかわかりやすく解説いただけると助かります。
(ちなみに上記引用部は正確な引用ではなくかなり簡略化しています。詳細は原文をご参照ください。)

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