野内良三「偶然を生きる思想『日本の情』と『西洋の理』」NHKブックス(2008年8月)★★☆☆☆

偶然を生きる思想―「日本の情」と「西洋の理」 (NHKブックス)

偶然を生きる思想―「日本の情」と「西洋の理」 (NHKブックス)

  • 無常と偶然の違いも視点のシフトに深く関わっている。実は、この両者は同一の事態を指さしているのだ。偶然は存在の出現に照準を合わせている(短いスパン)。無常は存在の消滅に焦点を合わせている(長いスパン)。無常は存在の時間性を問題にし、偶然は存在のありよう(様相)を問題にする。
  • 科学は自然を対象化することから生まれる。言い換えれば自己を世界から引き離し、距離をおいて、世界を見る。世界と人間の関係は切れている。自己は世界の外にいる。世界と自己が二つに分かれている。科学は分別そのものである。仏教的には無明(迷い)の境である。仏教的な悟りの境地とは世界と自己が一つになることだ。自己は世界を見ているのではなく、世界の内にいる。自己は世界を場として生きていて、自己と世界は一体化している。
  • 神道によれば、古代の日本人はこの自然の恵みを「明き清き直き心」をもって受け容れた。彼らは自然を人間の対立者として捉えるのではなくて自分たちはつねに自然「と共に在る」という意識をもっていた。みずから風土との一体化を求め、自然のなかに「神々」を感じ取り、花鳥風月、山川草木の「妙」を愛でたのである。
  • 日本人のスタンスは言語不信の仏教とも言語を全面的に信頼する西洋とも一線を画している。沈黙でもなく、饒舌でもない。言葉を惜しむのである。饒舌と寡黙――ここに西洋と東洋のスタンスの違い、いや、西洋と日本の違いを見ることができるだろう。
  • 偶然的なものはそれが偶然的なるが故に一つの根拠を持ち、しかもそれが偶然的なるが故に同じくまた何等の根拠をも有さない。偶然的なものは必然的であり、必然性は自分自身を偶然性として規定し、また他面この偶然性はむしろ絶対的な必然性である、と。(ヘーゲル

 
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