時間性について

本日は時間性について書いてみます。
 
あることを学ぶことで自分がどう成長するのか、世界の見え方がどう変わるのか、どんな未来が待ち構えているのかを、学ぶ以前や学んでいる過程ではほとんど認識することができません。継続がある一定の時間を経た後でそれらを振り返ったときに、その継続がもたらした変化や成長を初めて体感することができるということです。時間を経なければ決して把握したり理解したりできないことがあるということ、それが時間性という概念のポイントです。
 
一方で、資本主義社会は「お金で時間を買う」という言葉があるとおり、本質的にこの時間性を極力排除しようとする社会です。例えば掃除機や洗濯機、自動車などは、それまで時間をかけて行っていたことや自分が過ごしたくない時間を短縮してくれるものですが、お金さえ払えばこれらの製品を購入できます。お金がたくさんあれば、お金を稼ぐための仕事など行う必要がなくなり、自分の好きなことにさらに多くの時間を割くことができます。時間とお金をある程度等価交換できる社会であるということができるでしょう。
 
また資本主義では、ある物品やサービスをお金で購入する前にそれらの価値を十分提供してもらうことができ、その価値情報に基づき購入すべきか否かの判断ができます。仮に価値情報が十分に提供されない場合、その物品やサービスを購入しないという選択を行うことができます。ところが、学びというのは資本主義のようなお金による等価交換が基本的に成立しません。また、学びには時間性の概念が適用されますので、学んだ後どんな変化や成長が得られるのか、その価値情報が事前に十分提供されることは基本的にあり得ません。
(当然、資格を得るためや何かを記憶するという類の学びについては、時間性の概念の適用範囲が狭くなりますが、それでも何かに打ち込んで努力を継続したことによる成果というのは、得た資格や知識以外にも副産物として得られるものが多々あり、それらは時間を経た後でないと認識できないので、時間性の概念が適用できると思います。)
 
私たちがお金による等価交換に慣れれば慣れるほど、それを空気のように自然に受け入れれば受け入れるほど、この「学びの時間性」や学びの素晴らしさ、学びの重要性を理解することが困難になっていきます。「学ばなければならないことが分かっていながら、時間が無くて学ぶことができない」というのは、まさにこれらの理解が不足しているということです。お金中心の価値観の浸透が、学びの時間性や重要性に対する認識を奪っていくという「時間性のパラドックス」があるのです。
(一方で資本主義の加速が競争を激化させますので、この時間性のパラドックスを十分認識して学び続ける人が、この競争の中で生き残ることができるということでしょう。)
 
この時間性の概念や時間性のパラドックスは何も学びに関してだけ適用されるわけではなく、大きな変化など様々なことに適用することができます。学びの時間性とともに具体例で説明しましょう。
 

  • 子どもを有名な塾に通わせ、3万円も月の塾代にお金を払っているのだから、全校で現在100位程度の子どもの成績順位が80位くらいまで上がって当たり前であると考えている親。
  • 確実に到来する本格的なグローバル社会では英語は必須になると分かっていながら、今の仕事が忙しいことを理由に勉強をおろそかにしているビジネスパーソン
  • iPhoneiPadの登場など、加速化するユビキダス社会に関心はあるものの、なかなかその変化を積極的に受け入れて活用しようとしない人。
  • 中国やインドをはじめとした新興国が近い将来臨界点を超え、日本の存在を脅かすほどのインパクトを与えることを認識していながら自らアクションを起こそうとしない経営者。など。

 
最後となりますが、私が時間性に関するこのコラムにおいて学びを例に説明したのは、教育に関する大きな懸念があるからです。大人自身がこの「学びの時間性」と資本主義の関係を十分認識していない状況下では、子どもをしっかりと教育することなどできません。それどころか、そのような大人は「自分は大人である」ということすらできません。
 
また、自分の生命や生活を脅かすほどの変化に対しては敏感であるべきであるし、その感覚を失った種は絶滅するのが自然の摂理です。変化を受け入れることにとどまらず、変化に先んじて自らが変化すること。それが重要なのではないかと思います。
 
日本の没落の原因のひとつが、この「時間性」の概念の忘却にあるのではなないかと思うのです。
 
にほんブログ村 本ブログ 読書日記へ