内田樹「子どもは判ってくれない」文春文庫(2003年10月)★★★☆☆
- 作者: 内田樹
- 出版社/メーカー: 文藝春秋
- 発売日: 2006/06
- メディア: 文庫
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言葉
- 誰からの反論も予期しないで語られるメッセージというのは、要するに誰にも向けられていないメッセージである。
- 「愛している」は私の中にすでに存在するある種の感情を形容する言葉ではなく、その言葉を口にするまではそこになかったものを想像する言葉だったのである。
- 大切なのは、「言葉そのものが、発話者において首尾一貫しており、論理的に厳正である」ことよりも、「その言葉が聞き手に届いて、そこから何かが始まる」ことである。
- 正しいことだけを言いたがる人は、必然的に「具体的なこと」を言わないようになる。そして、いったい誰が、どういう資格で、誰に向かって言っているのかも不分明になる。
アイデンティティ
- アイデンティティというものはシステムの「事後的効果」にすぎない。
- 「アイデンティティを優先する生き方」ができるというのは、私たちがそれだけ気楽で自由な政治的制度の内側で生きているということの「結果」である。(中略)「人間はつねに自分らしくあるべきだ」とか「つねに私的利害が最優先的に配慮されるべきだ」というような意見が刑罰のリスクなしに主張しうるのは、ごくごく例外的に恵まれた政治的状況の下においてのみであるということを忘れない方がいい。
後悔
- 私たちの心を長い時間をかけて酸のように浸食して、私たちを廃人に追い込むような種類の「後悔」とは、「何かをしなかった後悔」である。かけがえのない時間、かけがえのない人、かけがえのない出会いを「逸した」ことの後悔、「起らなかった事件」についての後悔は、それがおこらなかったがゆえに、私たちの想像を際限なく挑発し続ける。
欲望と快楽
- 「快楽」は本質的に個人的なものであり、「欲望」は本質的に模倣的なものである。
- 私たちは他人の欲望を模倣する。私たちが何かを欲しがるとき、ほとんどの場合、その理由は「それを他人が欲しがっているから」である。
- 模倣欲望には終わりがない。(中略)原理的に、私たちの欲望は永遠に不充足のままである。
- 欲望は模倣的であるからそもそもその起源は私のうちにはない。だから、それが充足されたからといって、「私の内部」に充足感がゆきわたるということも起こらない。模倣欲望の充足とは、欲望の対象が前景から後景に退き、意識されなくなるというだけのことである。私たちが欲望するものはすべて「それはもう欲しくなくなった」と言うだけのために欲望されているのである。
- 快楽はベクトルがそれとは逆を向いている。快楽の対象がたえず意識に前景化されていること、それ自体が快楽の目的である。快楽は何かの結果ではない。プロセスである。快楽とは「快楽の追求」それ自体が十全な愉悦をもたらすようなもののことである。快楽を求める活動それ自体が快楽の完全な成就であるような活動が「自分にとって」何であるかを言える人間を、私たちは「快楽の尺度」を持っている人間と呼ぶ。快楽と欲望の充足を取り違えている人間にはおそらく快楽は訪れない。
個性
- はたから見て「好きなことをやっている」ように見える人間は、「好きなこと」がはっきりしている人間ではなく、「嫌いなこと」「できないこと」がはっきりしている人間なのである。
- 自分がなぜ、ある種の社会的活動について、嫌悪や脱力感を感じるか、ということを丁寧に言葉にしてゆく作業は自分の「個性」の輪郭を知るためのほとんど唯一の、きわめて有効な方法である。
- 人は「好きなもの」について語るときよりも、「嫌いなもの」について語るときの方が雄弁になる。そのときこそ、自分について語る精密な語彙を獲得するチャンスである。
- だから、「だっせー」とか「くっせー」とか「さぶー」とかいう単純な語彙でおのれの嫌悪を語ってすませることができる人間には、そもそもおのれの「個性」についての意識が希薄なのである。だから、そのような人間が「好きなこと」を見出して、個性を実現する、というようなことは百パーセント起こりえないのである。
身体を丁寧に扱う
- 身体感受性が鋭敏に働いている人は、他人の身体についても、同じように感受性を働かせることができる。どういう動作をしたがっているのか、どういう姿勢をしたいのか、どういう音質の声で語りかけられたがっているのか、何をされたいのか、何をされたくないのか…いっしょにいる人について、それが自然に分かり、求めるままに反応できる人は、「人の気持ちがわかる人」という社会的評価を受ける。
- 自分の身体の発する身体信号を感知できない人は、他者の身体の発する身体信号をも感知できない。自分の身体を道具的に利用することをためわらない人は、他人の身体を道具的に利用することもためらわない。
- 私たちが「失敬」な態度をとるのは、自分で自分を軽んじ、自分に対する敬意を忘れて生きてきた人間に対してだけである。
その他
- 「教養」の深浅は、自分の「立ち位置」を知るときに、どれくらい「大きな地図帳」を想像できるかによって計測される。
- 人間は必ずその人が必要とするときに必要とする本と出会う。
- 論理的に思考する、というのは簡単に言ってしまえば、今の自分の考え方を「かっこに入れ」て、機能を停止させる、ということである。(中略)「自分の考え方」で考えるのを停止させて、「他人の考え方」に想像的に同調することのできる能力、これを「論理性」と呼ぶのである。
- 人間の世界というのは本質的に同語反復的なものである。
- 人はしばしば「主観的願望」と「客観的情勢判断」を取り違える。
- 「怒る」ことは知性のパフォーマンスの最大化に寄与しない。