無意識の表層化、意識と自己形成、そして時間性

 人はその意識の中で主に言語を用いて思考を行うけれども、無意識の中での思考は恐らく言語以外の方法で行われていると考えられる。無意識の中での思考は言語を用いているか否か以前に、そもそも無意識の議論であるから実際にそれがどう行われているのかを議論すること自体が無意味であるし、どんなに議論しても自覚することは当然不可能である。
 
 さて、その無意識という得体の知れないものを構築しているのは自分の脳であることは明白であるが、自分の脳が生み出す思考とは、先天的な要因がある程度あるにせよ、大部分は過去に経験した無数のクオリア、および獲得した知識の集大成であるだろう。結局のところ自分の無意識はすべて現時点で自分が有する記憶で構築されていると考えられる。
 
 自分探しという言葉が一時期流行した。自分の本心、自分の理想像、そして本当の自分。それらは外界に存在し誰かや何かから享受できるものではなく、間違いなく自分の無意識の中に内包されている。よって、自分の無意識が志向していること、あるいは志向したいと思っていることをいち早く表層化させるということが、自分が自分として強く自然に生きるために有用であると考えられる。
 
 それでは、自分の中に内包されている、無意識が志向していることを表層化させるためにはどうすればよいのであろうか。自分の過去を直視し、自分と向き合い、自分を分析することも必要である。しかし私はそれ以上に、今の自己からどれだけ離れられるか、に依存していると思うのである。
 
 既存の物事を学び、ある程度まで広く把握しなければ何がオリジナリティであるかすら理解できないのと同様、自分の中に閉じこもり外に目を向けないのではなく徹底的に外を知ることによって、自分の思考が如何に偏っているか、如何に自分が物事を知らないか、如何に世界は多様であるかを、まずは絶望的なほど味わう必要がある。そうして、自分が今どこに立っているのかを少しずつ明確にしていく。さらに、多様な事象に触れる機会が多ければ、自分が志向したいと思っていることに出会うチャンスも多くなる。自分の無意識が自然に志向していることがある場合は、それが少しずつ明らかになっていくだろう。多種多様なものに出会いながら、それらに対し素直に反応しながら目の前の道を歩めばよい。そうすれば、おのずと無意識を表層化させることができるはずである。
 
 この無意識を表層化させるという作業は、同時に自分を構築する作業でもある。どちらが先といった話ではなく、表層化が構築を生み、構築が表層化を促進する。この表層化と構築の相乗効果を最大化させることが、自分の存在意義を強化することになるのである。さらに以上からわかることは、自己が持つ無意識のなかの核心を表層化させたり、自己という唯一無二のものを構築するためには、多様性に触れるということが必要不可欠なのである。
 
 まれに、自分の直感の不思議さに驚愕することがある。なぜ自分がある学問(例えば心理学)を学びたいと思ったのか、明確に説明できないのだけれどもなぜか自然と心理学の本を手に取っている。そしてある日、自分がまったく違う時間の中で学んでいた学問(例えば弁証法)を考えているときに、ふと心理学のある側面と弁証法のある側面が「ずどん」とつながり、一階層メタな視点から物事を考えられるようになって、思考が爆発的に拡がる瞬間が訪れるのである。
 
 人は本来、自分の認知が及ぶ範囲、すなわち既成の枠の中でしか思考できない反面、その枠の外にあることを志向することができる能力を持っている。この能力を伸ばすことは、自分の存在意義を強化することになるから、教育における重要な目的のひとつであるだろう。この志向性があるからこそ、学びが成り立つのだ。内田樹さんがいうとおり、学びというのは学びはじめる前やその課程では、それを習得した後どのような成長がもたらされるのかが基本的に分からない生成的なものである。すなわち、学びにおいて成果は過程に対し常に立ち遅れて訪れるのである。つまり、本当の学びとは、時間性の中でのみ行われるということである。この時間性というとても重要な概念を把握した上で、固定観念に囚われず多様な物事に触れ続け、自分の直感から目をそらさず気になったことを素直に経験したり学んだりし続けるということ。これが自己形成や成長のために重要なことであると思うのである。
 
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