内田樹「下流志向 学ばない子どもたち 働かない若者たち」講談社文庫(2007年1月)★★★★☆

下流志向〈学ばない子どもたち 働かない若者たち〉 (講談社文庫)

下流志向〈学ばない子どもたち 働かない若者たち〉 (講談社文庫)

教育

  • 今の日本の子どもたちは全世界的な水準から見て、もっとも勉強しない集団。
  • 「小学生的」とは、自分の主観的な「好き/嫌い」「わかる/わからない」がほとんど唯一の判断基準になっているということ。
  • 学力低下の危機的な要素の一つは、子どもたちが、自分たちには学力がないとか、英単語を知らないとか、論理的思考ができないといったことを、多少は自覚していても、そのことを特に不快には思っていないという点にある。彼らは「自分の知らないこと」は「存在しないこと」にしている。
  • 「人を殺してどうしていけないのか?」と問う中学生は「自分が殺される側におかれる可能性」を勘定に入れていない。同じように、「どうして教育を受けなければいけないのか?」と問う小学生は「自分が学びの機会を構造的に奪われた人間になる可能性」を勘定に入れていない。自分が享受している特権に気づいていない人間だけが、そのような「想定外」の問いを口にする。

学び

  • 教育の逆説は、教育から受益する人間は、自分がどのような利益を得ているのかを、教育がある程度進行するまで、場合によっては教育課程が終了するまで、言うことができないということにある。
  • 学びは市場原理によっては基礎づけることができない。
  • 子どもがまず学ぶべきことは、「変化する仕方」。学びのプロセスで開発すべきことは何よりもまず「外界の変化に即応して自らを変えられる能力」である。
  • 自分がこれから何を学ぶかについて、学生があらかじめ知っているということを前提にしては、学びは成立しない。学びというのは、自分が学んだことの意味や価値が理解できるような主体を構築してゆく生成的な工程である。
  • 知性とは、自分自身を時間の流れの中に置いて、自分自身の変化を勘定に入れること。無知とは、時間の中で自分自身もまた変化するということを勘定に入れることができない思考のこと。
  • 学びからの逃走、労働からの逃走とは、おのれの無知に固執する欲望である。
  • コミュニケーションというのは、本来は「わかること」だけをやりとりするものじゃなくて、「わからないこと」を「わかること」に組み入れてゆくということ。自分自身の「わかること」の領域を押し広げてゆくということ。

自分というもの

  • 「自分探しの旅」のほんとうの目的は「出会う」ことにはなく、むしろ私についてのこれまでの外部評価をリセットすることにあるのではないか。「自分探し」というのは、自己評価と外部評価のあいだにのりこえがたい「ずれ」がある人に固有の出来事である。
  • 私の唯一無二性は、私が「オレは誰がなんと言おうとユニークな人間だ」と宣言することによってではなく、「あなたの役割は誰によっても代替できない」と他の人たちが証言してくれたことではじめて確かなものになる。
  • 「孤立した主体」にとって、理論的に最高の状態というのは、世界に彼の他には人間が一人もいない状態だということになる。(中略)つまり、「百パーセントの自己決定・自己実現」というありえないものを求める人間は、論理の必然として、自分以外に誰が存在しても、それが自己実現の妨害者になるという不快な条件を生きなければならない。
  • 失敗の責任を他人に押しつけて、自分には何の過誤もなく、自分のやったことはすべて正しかったということにすると、その「正しいふるまい」を繰り返さなければならなくなる。人間はそうやって失敗に取り憑かれる

ベストソリューションの逆説

  • 「つねに正しいソリューションを採択することがベストである」と考えない方がよい状況というのが現にある。(中略)「正しいソリューション」を確定しようとして費消される損失が「正しさ」の実現によってもたらされる利益を上回る場合、正しいソリューションを採択することに固執することは正しくないという逆説的事況が出現する。

その他

  • 音楽を聴くということは「学び」の基本の一つ。(中略)音楽を聴くというのは時間のダイナミズムの中でのふるまい方を学ぶことではないか。無時間モデルでは音楽は聞こえない。聞こえるはずがない。
  • 敬意とか配慮というのは、経験を通じてしか学習できない。子どもが礼儀を知らないのは、子どもが礼儀正しい仕方で人に接する大人を身近に見たことがないからです。

 
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