言語化することの難しさ

普段行っている自分の思考や気持ちなどあらゆることを言語化するという行為。この行為は社会的動物である人間にとって必要不可欠であり、私たちが日常において特に意識することなく行っていることである。言語は自分の思考を整理したり様々な事象を他者と共有するための有用なツールであり、私たちは社会生活において多くをこのツールに依存している。コミュニケーションにおいては言語のみならず、態度、表情、雰囲気、ボディーランゲージなど他の要素も必要になるが、分かりやすく説得力のある内容を話したり、文章を書いたりすることは人生をうまく生きるうえで重要なスキルであることは間違いないだろう。
 
言語化は素晴らしい人間特有の能力である。言語によるコミュニケーションで政治や外交が行われ、経済活動が促進される。法律は規範、ルールの言語化そのものである。これまで壮大な人間社会を構築してきた人類は、言語により多くのものを創造してきた。よって一見、言語化は万能であらゆる物事を解決してくれるように思える。
 
しかしながらここで私たちが忘れがちなのは、言語化して何かを伝えるということには必ず決定的な限界があるということである。たとえば、目の前のリンゴを食べたときの感覚。私たちはその味や食感が、バナナやみかんや梨やブドウとは完全に異なるということを認識できるし、リンゴ以外の何物でもないと確信することができる。しかしながらその感覚(味や食感など)を言語化しようとすると、何千語の形容詞を用いようとも不完全な表現となる。言語では、リンゴの味すら正確に表現できないことも事実なのである。すなわち、言語化は本質的欠陥を内包しているのである。
 
もうひとつ例を挙げよう。私たちがよく使う「うれしい」という表現。「第一志望の大学に合格できてうれしい」「二度の失敗という苦汁を通じてやっとのことで第一志望の大学に合格できて心の底からうれしい」というように、いくら前後に多くの言葉を用いたとしても、その特定の人が感じた「うれしさ」そのものを言語では表現しきれないのである。
 
必要なのは、言語化という行為が持つ有用性と危険性、可能性と不可能性、日常での便利さと突き詰めて考えたときの本質的欠陥など、複数の視点からそれぞれの両面を認識することであろう。コミュニケーションにおいては、分かりやすく言語化し相手にしっかり伝えようとする努力を継続しつつ、その限界も見極める必要性がある。言語では表現できない、態度、表情、雰囲気、ボディーランゲージ、相手との物理的距離間などにも配慮し、時には音や絵などを用いて表現することも必要であろう。さらには、相手が言語で伝えようとしていることは、その相手が本来考えていることすべてを表現しきれていないことを認識し、その相手の考えそのもの(本質)を何とかして認識したいと思い続けることが必要なのだろう。コミュニケーションを強化したいと考えるのであれば、そのコミュニケーション手段の特徴について、しっかりと認識する必要があるのである。
 
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