内田樹「街場の教育論」ミシマ社(2008年11月)★★★★☆

街場の教育論

街場の教育論


 
ドキッとするほど鋭い教育論。
しかも、この本から学べることは教育論の域を越え、社会の仕組みや人間としての根源など
多岐に渡る。
 

(P.17)
問題が深刻であればあるほど、解決のための仕事を「誰が」担うのかという問いがニグレクトされる。制度上の問題が深刻になればなるほど、市民ひとりひとりの責務が曖昧になる。

これは国家だけでなく他の組織にも当てはまる。
その規模が大きくなればなるほど、この傾向が強まるのであろう。
  

(P.59)
「学び」というのは自分には理解できない「高み」にいる人に呼び寄せられて、その人がしている「ゲーム」に巻き込まれるというかたちで進行します。この「巻き込まれ」(involvement)が成就するためには、自分の手持ちの価値判断の「ものさし」ではその価値を考量できないものがあるということを認めなければいけません。自分の「ものさし」を後生大事に抱え込んでいる限り、自分の限界を超えることはできない。

自分というカラを常に破壊し、また創造していくというプロセス。
そのダイナミックな発展そのものが「学び」であるということだろう。
 

(P.49)
「どうふるまってよいのかわからないときに、適切にふるまう」能力の涵養こそが教養教育の眼目である。
 
(P.93)
教養教育というのは、「自分と共通の言語や共通の価値の度量衡をもたないもの」とのコミュニケーションのやり方を学ぶためのものである。

なるほど。
 

(P.132)
大人が子どもに向けて発信するメッセージは結局は一つしかない。
成熟しろ。
これがすべてです。

成熟しないで年を重ね、いつの間にか世間一般で言うところの「成人」を迎える人が多く存在する。
それは、この「成熟しろ」というメッセージをしっかり伝えてこなかった大人の責任である。
 

(P.219)
組織をクラッシュさせるようなミスは「ジョブ」の中には生まれません。「私のジョブ」と「誰かのジョブ」の間の、誰の責任でもないグレーゾーンに発生するのです。そのわずかによけいな仕事は誰のジョブにもリストアップされていない。だから、誰の責任でもない。

これは会社で実感していること。
誰かがこのグレーゾーンにいち早く気づき(得てして気づいていることが多い)、他の誰でもない
自分がそれを処理しなければならないのである。
 
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